夫がいまだに関係を続ける女性に心乱される妻、認知症の母の看病で出会った中年技師──男女の微妙な関係を描く短編集

文芸・カルチャー

2020/5/23

『恋愛未満』(篠田節子/光文社)

 先日、テレビで放映されていた映画を見た。傑作と名高いコメディだ。その作品はずいぶん前に見たことがあったが、当時はおもしろいと思えなかった。コメディよりも、内省的な物語を好む年頃だったのだ。ところが、年齢を重ねた今、再見して驚いた。主人公たちが、周囲とのかかわりの中で自分を見つめ直してゆく姿に、私はうっかり涙していた。

 人間には、年月によって変わるものがあるのだろう。『恋愛未満』(篠田節子/光文社)に登場する人物たちも、そんな自分に驚いているのではないか。

 13年間の結婚生活を終えた亜希子は、夫と円満に離婚した。夫婦がともに過ごしたのは、夫の単身赴任期間を除いての4年足らず。亜希子が夫の転勤先に一度もついていかなかったのは、旧家の嫁となり、ひとり娘である亜希子を絶対の味方に育て上げた母を、置いてゆくことができなかったからだ。そうした夫婦の必然か、亜希子らに子はなかった。だだっ広い実家に戻り、父に先立たれた母と暮らしはじめた亜希子だが、4年前、その母の認知症が発覚した。母娘ふたりきりの屋敷の中で、母は正気を失っていく。亜希子は、叫び、暴れる母に手を焼きながらも、医師の勧めに応じて彼女を精神科に入院させるという決断もできずにいた。

 そんなある日のこと、亜希子が幻の不調を訴える母を病院に連れていくと、どうやら母の脳に異変があるらしい。母をMRIの装置に入れなければならないが、母は見慣れぬ機械を拒絶して、パニックに陥るだろう。おまけに担当の放射線技師は、目の下に濃く隈を刻んだ陰気な中年男だ。男嫌いの母は、きっと準備室にさえ入ってくれない──絶望しかけた亜希子の目の前で、ことは起こった。

「さ、わたくしと一緒に行きましょう」
 男は繰り返す。物静かで決然たる声色だった。母は半ば口を開いて男を見上げている。呆然としている母の腕を、男は取る。高齢者や病人を支える介護士のやり方ではない。ぞっとするほど洗練された男の所作だ。ホストやジゴロの手慣れて崩れたエスコートではない。若い頃、映画で見た、姫君を大広間から廊下に導き、そのまま森へと連れ出す騎士の姿だった。(「夜の森の騎士」)

 5編から成る本書には、ほかにも、夫の旧友である年配女性に心を乱される若い妻、プライドも能力も高くどこへ行ってもモテない女性看護師など、恋愛未満の男女関係に揺れる、どこか身近な人物が登場する。

 時間は万人に平等だと言われるが、本書を読み進めていると、たしかにそうだと実感する。時が経てば、幼い子どもは大人になり、社会との折り合いを学び、自分の内面の処理を覚えてゆく。友人、伴侶、親子といった関係の上にも、ときに優しく、ときに残酷に時は流れる。本書では、男女の微妙な機微に絡めて、そうした人間の変化するさまが、細やかな筆で綴られる。

 時や周囲の環境は、自己の外にあるものだ。本書が教えてくれるのは、変化とは、自分を取り巻く他者との関係の中でこそ起こるのだということにほかならない。本書を読み終えたとき、物語という“他者”からあなたが得られた変化をも、ぜひ味わってほしいと思う。

文=三田ゆき

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