あなたの親の愛は“贈与”か“交換”か…「おくる」を哲学的に考える贈与の世界

文芸・カルチャー

公開日:2020/5/23

『世界は贈与でできている』(近内悠汰/NewsPicksパブリッシング)

 ある考え方と出会うとき、人生が変わることがある。わかりやすいのは「自分をブランディングしよう」や「仕事とプライベートを両立するワークライフバランスを大切にしよう」など、一昔前の日本ではあり得なかった新しい生き方だ。今までの時代にない、新しい価値観を基に「考え出されたもの」である。

 これらを解説するのは自己啓発本やビジネス実用本が主だが、「考え方を生み出す」という分野は「哲学」が最も得意とするところだろう。『世界は贈与でできている』(近内悠汰/NewsPicksパブリッシング)ではこのように述べられている。

つまり言葉や概念は、幸福な生を実現するためのテクノロジー、生活の技なのです。
そして、幸福な生を実現するためのツールを、僕らは自ら作り出すことができる。

 哲学とは、人生をよりよい方向へ導くため、人々が生きる上で必要な「新しい考え方」を生み出す学問のこと。そして本書は、その考え方を提案する哲学の本である。その内容はズバリ「贈与」。

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 私たちの周りには「お金で買えないもの」があふれている。大切なあの人からもらったプレゼント、親や恩師から受けた無償の愛、一生を誓い合う大切なパートナーなど、数字で表せない価値がいっぱいある。

 ここで改めて問いたい。「お金で買えないもの」とは、いったいなにか? 現象として目にすることができても、言葉で説明するのは難しい。

 そこで哲学の登場だ。言葉にできないもの、体系としてまとまっていないものを、様々な角度から思案することで具現化する。本書では、「お金で買えないもの」および「その移動」を、「贈与」と表現。そして贈与の正体を様々な角度から見つめ、いかに私たちの生活に贈与があふれているか明らかにする。

プレゼントされたものに宿る価値

 たとえば「よく見かけるけど悪くないデザインの時計」があったとしよう。金額は5000円くらいだろうか。もし自分で買ったならば、1年と経たず部屋のどこかに埋もれるだろう。しかし大切な人がわざわざプレゼントしてくれたものならば、きっと壊れるまで大切に使うはずだ。

 ここで重要なのは「プレゼント」によって、5000円の時計が「唯一無二」の価値を帯びることだ。同時にその価値は「自分では生み出せない」。

 つまり私たちは「他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができない」といえる。

誰かにプレゼントすることの意味

 大切な人からのプレゼントは、かけがえのない財産である。一方で自分から大切な人へプレゼントを贈ることは、大きな喜びとなる。普通に考えれば、大事な金銭を支払ってプレゼントすることは、浪費と同じで控えるべきだ。しかしなぜ一定以上の親しい人に贈るプレゼントは、自分自身も嬉しくなるのか。

 それは恋愛の場面で考えるとわかりやすい。好きな人に気持ちを込めたプレゼントをしたとき、相手が笑顔で受け取ってくれると嬉しくなる。後日、好きな人がお礼にお返しのプレゼントをくれたときは、もう胸の高鳴りが止まらない。お返しのお返しとして、またプレゼントを贈りたくなる。

 反対にプレゼントの受け取りを拒否されたとき、喪失感は筆舌に尽くしがたい。そこで関係は終わり、その後は顔を見るだけで両者に気まずいものが走る。

 つまり贈与は「差出人」と「受取人」という、人と人の「つながり」を表す。そしてプレゼントのお返しのように「反対給付の義務」が生まれる。

親からもらう無償の愛

 親や恩師から受ける「無償の愛」も贈与のひとつである。たいていの親は、理由もなく子どもを愛する。「可愛らしいから」や「自分の子どもだから」などの説明は、美しいが理由にはならない。

 では、なぜ親は子どもを愛するのだろうか。それは親もまた、その親から理由もなく愛されて育ったからだ。理由もなく愛されて育った子どもは、自分が親になったとき、理由もなく子どもを愛するようになる。そうして育った子どもが親になったとき、親は子どもが孫を愛する様子を見て、自分の理由なき愛が子どもにしっかり伝わっていたと安堵する。

 ここれは、「親から理由もなく愛してもらった」という贈与を受けた子どもが、「反対給付の義務」に突き動かされて「自分の子どもを理由もなく愛する」という、返礼の現象である。つまり贈与は受け継がれるものであり、必ずしも差出人と受取人の立場が入れ替わるだけでなくてもよい。

毒親が行うのは贈与ではなく交換

 もし親が「子どもを一生懸命育てて、有名企業に就職させて、老後の自分を支えてほしい」と考えながら子育てをしたらどうなるだろう? 愛に理由があった場合、すでにそれは無償の愛ではなく、その贈与は「呪い」として子どもを縛り付ける。

 贈与には「反対給付の義務」が生まれる。丸裸で生まれてきた私たちは、親に財産を分けてもらいながら大きくなり、長い年月をかけて一人前になる。言い換えれば、親から贈与の返礼を要求されたとき、何も持たない子どもは返せない罪悪感に苦しみながら育つ。

 愛に理由をつける親がいたとすれば、その親は子どもに贈与しているのではない。等価物の「交換」を要求しているのだ。交換の最たる例は、資本主義社会だろう。衣食住にはじまり、娯楽や教養、人と人のつながりなど、あらゆるものが「商品」となって、金銭との「交換」を要求される。その交換ができなくなった者は社会からはじき出される。

 ここまで述べてきた贈与とは、交換のことではない。贈与とは、差出人から受取人に贈られるものだが、受取人は贈られたことに気づかなくてよい。そして「反対給付の義務」が生じていても、直ちに返す必要はなく、さらに差出人以外に返してもよく、もっといえば受け取るだけでも「つながり」が生まれて大きな意味を持つ。

贈与にあふれる世界に気づく人たち

 ここまで本書より贈与が持つ様々な側面を見てきた。しかしそれはあくまで一部分。本稿だけを読むと、贈与に関する謎がさらに深まって終わるだろう。しかし本書には続きがある。

 私たちは、私たちの想像以上に贈与された世界を生きており、それに気づくことなく生きている。しかしそれ自体は問題ではない。贈与とは、受け取るだけで大きな意味を持つからだ。

 ところが中には、贈与されたものに気づく人が出てくる。世界中に満ちあふれた贈与に気づいたとき、その人はどんな行動に出るだろうか。この続きが本書にある。

 本書が描き出す贈与の世界は、謎解きのように入り組んでいて、迷路の果てにある出口に立ったとき、いつもの日常とは少しだけ違う景色を手に入れられる。

 本書から贈与される新しい考え方を、あなたは受け取れるだろうか。いや、それは無理に受け取らなくてよい。別の誰かが確実に受け取り、その人が差出人となって別の誰かに贈与し、そうして世界中を回って、あなたが受取人となり、また差出人となるのである。

文=いのうえゆきひろ