多重債務や井川遥の付き人の過去も…。実は人生も壮絶だった個性派俳優・松尾諭

文芸・カルチャー

公開日:2020/7/19

『拾われた男』(松尾諭/文藝春秋)

 俳優を目指して上京後、拾った航空券の落とし主が芸能プロダクションの社長だった。その縁で役者の道へと進むも、目が出ない時期には酒に溺れて多重債務者に。奥さんとの入籍間近には、共演者の美人女優を好きになってしまい、幸せな家庭が途端に修羅場に……。

 なんだか昭和の俳優の人生を描いたドラマのようだが、このエピソードは俳優・松尾諭の自伝風エッセイ『拾われた男』(文藝春秋)に綴られたもの。彼は“昭和顔”と言われることも多い個性派俳優だが、その人生の歩みも驚くほど昭和。そして驚くほど波瀾万丈だ。

 巻末には「このエッセイは史実をもとにしたフィクションです」との断りがあるが、本書に描かれたその人生の骨子は、おおむね事実と思ってよさそう。鳴かず飛ばずの時期、「世間を癒やしてブレイク」した先輩女優の付き人になった……との逸話が本書にあるが、その先輩女優とは井川遥。彼女もInstagramの6月29日の投稿で、本書を以下のように絶賛している。

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人間味が溢れ、彼の文才に唸り、そしていつの間にか、ほろり…。そんな素晴らしい一冊です。ぜひお手に取って頂けたら。ちなみに絵もマツオ氏のもの。多才なのです。

 このコメントにあるように、本書に綴られた彼の人生の逸話は、ただ人間味が溢れているだけでなく、その描き方が非常に巧みなのだ。

 本書は27回分のウェブ連載をまとめた1冊だが、各回の話はまず回想から入り、本題の話を進めた後に、「~というのは、また別のお話で」と次回の予告で終わる。構成も古典的なところに、やはり昭和を感じる。そしてエピソードは型破りでも、その文体はカチッと硬質。自身の成功体験は控えめに、失敗談は精緻に面白く描写しようとする姿勢もなんだか古風だ。

 最後に「はじめてのちゅう」という回から、その文才が伝わる部分を引用しよう。題名の通り、俳優として初めてのキスシーンの体験を描いた話なのだが、彼はそこで9回もNGを出してしまうのだ。以下、引用。

 阿呆だの馬鹿だのと罵倒の言葉を吐きに吐き、怒りの収まらないままに、
「次、本番!」
 と投げ捨てるように号令をかけた。
 その前のカットですでに汗だくになっているところに、またしても監督の雷に打たれ、さらに、美人女優にキスするという重圧で、汗腺は馬鹿になっていた。本番前の直しに来たメイクさんが、その止まらない汗に手を焼いていると、
「そんなやつの直しなんかしなくていいよ!」
 とまたも監督の怒号が飛んだ。
(『拾われた男』より)

 誰もが憧れる美人女優とのキスシーンが、こんなにイヤ~な体験として描かれるなんて……と驚き、読んでいるこちらも冷や汗をかいてしまった。今回は自伝風のエッセイだったが、役者稼業の裏側を描くエッセイをもっと読んでみたい。そう感じた1冊だ。

文=古澤誠一郎