横浜山手の洋館ホテルで、おいしさあふれるひと時を。女性パン職人の成長を描くお仕事×グルメ×恋愛小説

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/20

ホテルクラシカル猫番館 横浜山手のパン職人
『ホテルクラシカル猫番館 横浜山手のパン職人』(小湊悠貴/集英社)

 香ばしいパンの匂いが、ページから立ちのぼってくる。バターをたっぷり折り込んだサックサクのクロワッサン、噛むたびに小麦の旨味が広がるフランスパン、新鮮な果物をたっぷり使ったデニッシュ──。

 小料理屋を舞台にした「ゆきうさぎのお品書き」シリーズでは、味の染みた肉じゃが、いくらを乗せた鯛茶漬けなど、“和”のごはんを軸にしたハートフルストーリーを描いてきた小湊悠貴さん。新シリーズ「ホテルクラシカル猫番館 横浜山手のパン職人」(小湊悠貴/集英社)は、前作から一転、“洋”のおいしさにあふれた物語だ。主人公は、23歳の女性パン職人・高瀬紗良。横浜山手の洋館ホテルで働き始めた彼女が、パン作りや接客、スタッフとの交流を通して成長していく姿が描かれる。

 紗良は、これまで何人もの政治家を輩出してきた旧家のお嬢様。祖父母や母は「仕事なんてする必要ない」と箱入りのまま育てようとするが、紗良は反対を押し切って、あこがれのパン職人に。しかし、就職先のパン屋の店主である師匠が病に倒れ、23歳にして職を失ってしまう。そんな紗良に手を差し伸べたのが、“高瀬家のはみ出し者”である叔父の誠。紗良は、誠が働くホテル「猫番館」でパン職人として働くことになる。

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 このホテルが、なんとも言えず素晴らしい。横浜の高台にひっそりたたずむ瀟洒な西洋館は、日常から解放される特別な空間。手入れの行き届いた薔薇園、優雅に横たわる白くてふわふわの看板猫マダム、旬の食材を使った絶品の料理と、うっとりするようなときめきが詰まっており、夢心地のひと時を過ごすことができる。泊まれるものなら、ぜひ泊まってみたいと思わせてくれる。

 そんな最高のホテルで、紗良はパン職人として腕を磨いていく。まだ駆け出しではあるが、パン作りが大好きで、誇りを持って仕事に臨む紗良の姿はまぶしくも清々しい。その日のメニューに応じて、料理をもっとも引き立てるパンを考え、手を抜くことなく誠実に生地をこねる。宿泊客の笑顔と「おいしかった」の一言を糧に、昨日よりも今日、今日よりも明日と一歩ずつ前進する。作中では、仕事に対する紗良の思いも語られ、読んでいるこちらも背筋が伸びる思いがする。

「私はパンをつくるときに、気を抜いたことなんて一度もありません。試験だろうとなんだろうと、普段通りの仕事をしていれば、いつだって最高のパンを焼ける。それができてこそ、プロだと思います」

 さらに、ホテル猫番館で働くスタッフの素顔も語られる。無骨で厳しいが、料理長・天宮隼介。優しくて紳士的だが、なにかにつけて紗良をからかってくるコンシェルジュの本城要。いい加減に見えて意外と頼れる叔父の高瀬誠。巻が進むにつれて、ベテラン支配人、クールなウェイター、ドジで癒し系の厨房スタッフなど、顔ぶれもにぎやかになっていく。4月に発売される4巻では、紗良の兄、要の妹や母、隼介の兄など、“家族”をめぐるエピソードがつづられ、物語の奥行きをさらに深くしている。紗良と要の一進一退の恋模様からも、目が離せない。

 シーンによって視点が切り替わるため、登場人物の心情がより深く伝わってくるのも、この作品の特徴だ。著者の小湊さんによると「主人公はもちろんですが、脇役にもそれぞれ歩んできた人生があります。視点を変えてモノローグを入れたり、主人公以外の人と会話したりすることによって、その人物をより深く理解してもらいたいという意図があります」とのこと。その効果は十分発揮されており、読めば読むほど登場人物への愛着が深まっていく。幕間では、ホテルの看板猫マダムの視点による短いエピソードがつづられるのも、猫好きの心をくすぐってくれる。

 お仕事小説として、グルメ小説として、ラブストーリーとして。「ホテルクラシカル猫番館」は、さまざまなお楽しみがたっぷり詰まったシリーズだ。4月20日には、待望の最新4巻が発売された。読めばきっと、あなたの心とおなかを優しく満たしてくれるだろう。

文=野本由起