病理医って、どんな医者? “患者と会うことのない医者”が、「分業」での生き方・病気・仕事を語る新感覚エッセイ

小説・エッセイ

公開日:2021/3/27

ヤンデル先生のようこそ! 病理医の日常へ

 私は、イクラに興味がある。食べ物ではなく「医療系クラスタ」のことだ。クラスタとは、英語で果実の房であるとか同一種の生き物の集団などを意味する「cluster」から転じて、IT業界では複数のコンピューターを連携させ統合することを指し、ネット上だと同業者や同じ趣味に興じる人などを表すのに使われている。つまり、医クラとは医療関係者のことであり、SNSでそのアカウントを見つけてはフォローしている。ところが不思議なもので、SNSは独自のアルゴリズムによって閲覧者の興味を惹きそうな投稿を表示するはずなのに、『ヤンデル先生のようこそ! 病理医の日常へ』(市原 真/清流出版)の著者については最近まで知る機会が無かった。ツイッターで約13万人からフォローされている著者と出逢わせてくれないなんて、随分といけずなAIである。

 著者は、患者を直接診察せずに患部の組織や細胞を観察して病気を診断する「病理医」で、これまでにも一般向けに病院の選び方や、どこからが病気なのかといった本を上梓している。本作は自身の仕事を通して健康や病気のことだけでなく幸福論までをも語る異色のエッセイとなっている。

キーワードは分業「病理医のお仕事」

 先に病理医の仕事について簡潔に書いてしまったが、もちろん本書ではもっと詳しく説明がある。まず医師の仕事を、(1)「病気の正体を見定める」、(2)「治療方針を決める」、(3)「医療の責任を負う」、(4)「一番責任の重い手技を行う」の4つに分類。医療が高度化した現代においては、一人の天才医師がすべてをこなすというのは事実上不可能で、そのうち(1)の部分の一部を担っているのが病理医だ。著者は「医師の中でも一番マニアックな仕事ではないかと思います」と述べている。

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 そんな病理医の1日の仕事では、始業時間前のメールこそが「主戦場」だという。一般の医師と違い患者さんと向き合う代わりに、「映像」と「文章」を相手にしている著者のもとへは、他の病院からも個人情報を削除した患者さんの病理診断の相談が舞い込むそうで、多くの医療者の相談に乗るその特殊性が分かろうというもの。

分業は「やりたいこと」より「できること」

「私は成績がよかったので医学部に入りました」と云われたら、なんて嫌味な人なんだろうと思うかもしれない。しかし、著者はそう公言して憚らない。でもそれは、「どんな仕事をしても、人助けはできる」と考えているからだ。花を買うことでも本を読むことでも、道路を作ればそれでまた誰かが救われるとするのなら、「医師をできる人」が「医師になればいいだけの話」なのだと。

 ただし、医学部に入学したばかりの頃に著者は病院見学のイベントで、看護師からその仕事について「ケアという仕事のプロフェッショナルなんだよ」と云われ「脳を揺さぶられ」たという。看護師をはじめ、他のスタッフはすべて医師の手伝いをしていると思い込んでいたことに気づき、そこから「自分にできることとは?」と問い続けてたどり着いたのが病理医だったそうだ。

分業でチームが強くなる「SNS医療のカタチ」

 本書では特に「ツイッターのことを『発信用のツール』とは考えていない」という著者の視点に目から鱗が落ちた。私自身は、情報収集するとともに承認欲求を満たすツールと考えていたのだが、「行動原理の中核にあるのはアクションではなくリアクションです」という言葉にハッとさせられた。世間で起きている出来事を「受信」してから、「同期して呼応して反射している」といわれれば、自分も何かしらに反応し投稿していることに気づかされる。そして著者は、SNSで情報発信している他の医療者たちの「間違った情報により命を落とすかもしれない患者を救うためのものであり、医療の一環」「診察室でのやりとりを延長するため」として発信されるメッセージを紹介し、自らはそれらの情報を幅広い人に伝える「反射体」としての活動を担うことにしたという。

生き方の分業「異なる視座」

 本書では、長い闘いとなっている新型コロナウイルス禍について、感染した患者さんだけでなく、「かかってない人の生活こそを大きく変化させました」と語り、感染を防ぐソーシャルディスタンスのせいで「互いの距離が離れているから分業することが難しい」と指摘している。

 だからこそ、自身が「SNSで多数の人と接点を持ち、受信や反射を繰り返していること」を例に挙げ、この災害を乗り越えるために「これまでとは異なる接点を増やしてみる」という方法を提案していた。

 そういえば、私がSNSに投稿した疑問に対して専門職の人が実験までして教えてくれたり、私の投稿を日頃から見ていたという相識でない人から仕事をいただいたたりしたこともある。これからはもう少し、人から見られていることを意識して下品な投稿は控えようかと思う。ああ、AIが引き合わせてくれなかったのは、それが原因か……。

文=清水銀嶺