語彙力の高さこそ文豪の文豪たる所以! 知れば知るほど世界が広がる日本語を紹介

文芸・カルチャー

公開日:2021/6/5

文豪の凄い語彙力
『文豪の凄い語彙力』(山口謠司/新潮社)

 SNSの普及により、誰もが気軽に文章を書き発信できる昨今だが、どうしても人それぞれに文章の出来不出来は出てくる。仲間内での他愛のない会話なら問題ないのだが、何かを訴えようとしているのに、誤字脱字が目立ったり語彙が足りなかったりすると説得力に欠けてしまう。小生も物書きの端くれとして常に気を付けてはいるのだが、あとで読み返すと「もっとうまい表現があったのでは」と思うことも。

『文豪の凄い語彙力』(山口謠司/新潮社)は、近現代の文豪たちが作中で使用した深みのある日本語を著者がセレクトして紹介。その意味と用法をわかりやすく解説しており、読み終えた読者は公私問わず自身の文章に応用できるだろう。本稿では小生が気になった例を4つ挙げてみたい。

【生中(なまなか):内田百閒】
「貧乏の絶対境は、お金のない時であって、生中手に入ると、しみじみ貧乏が情けなくなる」

 小説家・随筆家である内田百閒の随筆『大晦日』より。「生中」の文字だけ見ると「生ビール中ジョッキ」かとも思うが、勿論そんなわけはない。これには「中途半端でとっても気持ちが悪い、具合が悪い」の意味がある。生涯、金銭的苦労が絶えなかったという百閒だけに、それを使用して綴る文章がなんとも哀愁を誘い、同じく低収入の小生も身につまされるが、たとえ「生中」な額でも収入はありがたくもある。

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【謦咳(けいがい):横溝正史】
「わたしこそ一度先生のご謦咳に接したいと思っていたところでした」

 横溝正史といえば「金田一耕助シリーズ」だろう。その中の一編「スペードの女王」の一節だ。小生は未読だが、この先生とはやはり金田一耕助か。「目上の方に、直接にお目にかかる」ことを表し「謦」とはささやかな咳、日常の些細な漏れ出る音を意味し、「咳」とはそのまま日常的な咳。日常のふるまい全般を表す意味がある。小生なら憧れの富野由悠季監督の謦咳に接してみたいものである。

【哀怨(あいえん):山田風太郎】
「十兵衛の馬をとりかこみ、左右を進む八騎から、哀怨な、そのくせ情熱的な十六の瞳がからみつく」

 この十兵衛とは勿論、かの剣豪・柳生十兵衛である。『柳生忍法帖』で描かれた実に鬼気迫る場面だが、敵の描写もまた恐ろしげである。「哀怨」とは、ただ「哀しい」だけでなく「怨み」も重なるのだから、まさに心から嘆き哀しむさまを表す。しかし、十兵衛ならこのような危機でも、気迫あるまなざしで敵を退けたに違いない。そこには「哀しみ」も「怨み」もないだろう。

【海容(かいよう):太宰治】
「さんざんムダ使いされて、黙って海容の美徳を示しているなんて、とてもそんな事の出来る性格ではなかった。」

 太宰治晩年の作にして未完の連載『グッド・バイ』からの一節。海のような広さで何でも受け容れるかの如く、寛大な心で相手の罪を許す言葉だ。もっとも、作中ではその後に「何か、それ相当のお返しをいただかなければ、どうしたって、きがすまない」と続くので、この主人公はとても心の狭い人間だと思われる。しかし、太宰自身も「海容」な心があれば、悲劇的な最期を迎えることはなかったのだろうか。

 以前、何かにつけて「ヤバイ」で物事を表現する若者たち(だけではないかもしれないが)の話を耳にしたことがある。「ヤバイ」は、そもそもは危険や不都合な状況が予測されるさまを表す言葉であり、褒めるにせよ貶すにせよ、同じ言葉でくくってしまうことに眉をひそめる人も少なくなかったはず。そんな「ヤバイ」も、もし語彙を増やしてより心情や状況に合った言葉で多様に表現されたらもっと面白い情感が見られるかもしれない。なんとなく、自分の語彙に自信がない方は、是非とも本書を片手に日本語における表現の多彩さを学んでほしい。

文=犬山しんのすけ

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