偽患者として精神病院に潜入! 全米医学会を大きく揺るがした「ローゼンハン実験」その真実とは――?

文芸・カルチャー

公開日:2021/7/17

なりすまし 正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験
『なりすまし 正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』(宮﨑真紀:訳/亜紀書房)

 1973年。著名な科学誌である『サイエンス』に9ページの論文が掲載された。

「狂気の場所で正気でいること」と題された論文は、当時のアメリカの精神医学界に衝撃をあたえ、精神疾患に対する人々のイメージを根底から覆すことになった。

 スタンフォード大学の教授であったデイヴィッド・ローゼンハンのこの論文は、ボランティアで募った健常者8名をそれぞれ精神科施設に送り込み、医師には「ドスンという音」「空っぽだ」「空虚だ」という声が聞えるとだけ話して、幻聴以外にとくに異常がない人間が入院できるかを探った研究だった。果たしてこの幻聴の症状だけで重い精神疾患を患っていると診断されて偽患者の全員が精神科施設に入院できたのだった。

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 この論文によって、精神医学には正気な人とそうでない人を診断するための信頼できる基準がないということが明るみに出て、その後の精神医学の研究や医療の現場でこの論文が引用されることになるなど、論文発表後のローゼンハンは精神病診断の権威となった。

『なりすまし 正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』(宮﨑真紀:訳/亜紀書房)は、ジャーナリストである著者のスザンナ・キャラハンがこの「ローゼンハン実験」を調査したノンフィンクションだ。 

 著者がこの実験について調べ始めると、不思議なことに偽患者として参加したボランティアは誰ひとり明かされておらず、また実験として潜入した病院名もわからなかった。

 しかし著者は出版されなかったローゼンハンの未発表原稿を発見。そこには、潜入した偽患者たちの詳細と入院時のレポートが事細かに記されていた。

“面白い”ノンフィクションとは、調査・取材する中で新たな事実が見つかり、著者自身が当初思い描いていたストーリーから予想だにしない方向へと逸脱していく予測不能な事実が明らかになっていくものだ。

 暗闇の中で目指す先の僅かな光が、突然消えては別の方向でまた灯されるような、信頼足らざる資料によって「ローゼンハン実験」の真相と、ローゼンハンの本性へと迫っていく本書はまさに「事実は小説より奇なり」を地でいく“面白い”ノンフィクションだ。

 また「ローゼンハン実験」の真相に迫る中で、精神医学界がこれまでとても脆弱な基準の上に成り立っていたことも本書は教えてくれる。

 1971年には米国と英国の精神分裂病(現在は「統合失調症」)の診断基準がほとんど一致しないことが研究でわかったという。医師の診断は恣意的で基準が曖昧なため、医師によって診断が違ってしまうのである。

 つまり精神疾患は医師もよくわかっていなかったのである。

 ようやくその診断を信頼できるほどに標準化し、基準を整備したのがアメリカ精神医学界によって1980年に改訂された『精神疾患の診断統計マニュアル第3版』( DSM-3)で、この3版を作成するにあたり発端となったのが、「ローゼンハン実験」によって明るみに出た精神医学の土台の脆弱さとその批判であった。

 「ローゼンハン実験」はアメリカの精神医学界への批判によって改革を促した重要な論文なのだが、その重要な論文自体がまるで砂の上に描いた絵のように吹けば消え去るようなものだったとしたら……。

『なりすまし』は、身の毛もよだつ「ロボトミー手術」やまるで囚人のように患者を扱っていた歴史から最新の医療現場の現在地まで、精神医学界の瑕疵を垣間見ることができるノンフィクションなのだ。

文=すずきたけし

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