依頼の裏には一体何が…? 余命半年カリスマ経営者の「告白本」に関わるゴーストライターの苦悩の行方『にごりの月に誘われ』

文芸・カルチャー

公開日:2022/4/22

にごりの月に誘われ
にごりの月に誘われ』(本城雅人/東京創元社)

 人は信じたいものを真実だと思い込んでしまう、なんてよく言われるけれど、他人の言葉が嘘か本当かなんて誰にも見極めるすべはないのだから、けっきょくのところは、信じたいように信じるしかない。けれど信じる前提には、相手への信頼が必要だ。もし嘘の裏に自分の不利益が隠されている可能性があるなら、頭から疑ってかかるくらいがちょうどいい。小説『にごりの月に誘われ』(本城雅人/東京創元社)の主人公でフリーライターの上阪傑が、仕事の打ち合わせに疑心いっぱいで臨んだのは、相手がかつて煮え湯を飲まされたIT企業の会長・釜田芳人だったからだ。

 カリスマ経営者として知られる釜田の自叙伝のゴーストライティングを3冊にわたって担当した傑は、正当な報酬を与えられなかったことを長く恨んでいた。そんな釜田から、11年経って今さら、再びゴーストライティングを頼みたいといわれ、疑うなと言うほうが無茶である。それでも傑が引き受けたのは、余命半年の釜田にとって最後の著作となれば前回の報酬をとりもどす以上の収入が期待できること、そして釜田がこれまでどこでも語ったことのない“衝撃の事実”を明かしてくれるらしいこと、という理由があったからだ。だが、病状の思わしくない釜田が亡くなれば、本が出せる確証はなくなってしまう。1日1時間という限られた取材時間のなかで、傑は大ヒットに導く原稿を完成させることができるのか?

 釜田の語るビジネス論や、カリスマ経営者として祀り上げられてきた彼の苦労話。推理小説というよりはビジネス書の趣のある本作だが、著者は、もともと野球をテーマにしたミステリ小説でデビューした本城雅人氏である。そこかしこに謎は仕込まれている。釜田は、華々しい経歴をみずから打ち砕くように、かつてパートナーだった優秀な技術者の存在を明かし、自身の成功はすべて彼の手柄をかすめとったものであるかのように語り、さらには愛人を囲っていた過去まで飛び出す始末。

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 人徳高いビジネス論に反して、実際は冷徹でがめつい一面があることは知っていたものの、想像していた以上に過去の著作が嘘だらけだったと知り、傑は、利益供与に加担してしまった自分を嫌悪するはめになるのだが……いったい、なぜ、いまさら? 死に際に半生を悔いたにしては、態度は変わらず傲岸不遜。そもそも語られる“真実”にも矛盾は多い。

 さらに、傑の知らないところでも、釜田が袂を分かった元パートナーの技術者・和泉の家族に、今なお不当な不利益が及ぼうとしていることも描かれるため、物語がいったいどこへ向かおうとしているのか、読者は傑以上に惑わされる羽目になる。

 釜田の嘘に傑も読者も騙されてしまうのは“真実はこうであってほしい”という願いがあるからだ。人は、できることなら美しいものが見たい。欲や欺瞞にまみれた真実が、本当のことだなんて、思いたくない。根っこには良心が残っていてほしいと信じたいのだ。けれど、現実は? 釜田だけでなく私たちも、それほど美しく生きられるだろうか? 今度こそ嘘を書きたくないとライターの矜持をみせる傑がたどりつく“真実”もまた、本当のことかどうかなんてわからない。その真偽は、読者が自身の心に照らし合わせて見極めるしかないのである。

文=立花もも

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