大正時代に誕生した、つらいサラリーマン像。そしてブラック労働の実態/なぜ働いていると本が読めなくなるのか③

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/23

なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆/集英社)第3回【全8回】

「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」…そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないでしょうか。「仕事と趣味が両立できない」という苦しみは、いかにして生まれたのか。自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者の三宅香帆さんが、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿ります。そこから明らかになる、日本の労働の問題点とは?『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、すべての本好き・趣味人に向けた渾身の作品です。

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なぜ働いていると本が読めなくなるのか
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆/集英社)

「サラリーマン」の登場

 さて突然だが、あなたは『痴人の愛』を読んだことがあるだろうか?

 谷崎潤一郎が1925年(大正14年)に刊行した小説だ。数え年で15 歳の少女ナオミを自分好みの女性に育て上げようとする男性の物語である。この大正末期に世に出た小説の主人公は、実は「サラリーマン」であることをご存じだろうか。

『痴人の愛』の冒頭は、主人公がナオミをカフェで見初める場面、そして主人公・河合譲治の自己紹介からはじまる。

私は当時月給百五十円を貰っている、或る電気会社の技師でした。私の生れは栃木県の宇都宮在で、国の中学校を卒業すると東京へ来て蔵前の高等工業へ這入り、そこを出てから間もなく技師になったのです。そして日曜を除く外は、毎日芝口の下宿屋から大井町の会社へ通っていました。

 一人で下宿住居をしていて、百五十円の月給を貰っていたのですから、私の生活は可成り楽でした。それに私は、総領息子ではありましたけれども、郷里の方の親やきょうだい、、、、、へ仕送りをする義務はありませんでした。と云うのは、実家は相当に大きく農業を営んでいて、もう父親は居ませんでしたが、年老いた母親と、忠実な叔父夫婦とが、万事を切り盛りしていてくれたので、私は全く自由な境涯にあったのです。が、さればと云って道楽をするのでもありませんでした。先ず模範的なサラリー・マン、──質素で、真面目で、あんまり曲がなさ過ぎるほど凡庸で、何の不平も不満もなく日々の仕事を勤めている、──当時の私は大方そんな風だったでしょう。

 まさに大正時代は、河合譲治のような「サラリーマン」が誕生した時代だった。

 生まれた土地や階級から解放された青年たちが、都会の企業で働くことを選択し始める時代。サラリーマンという名の、労働者階級でもなく、富裕層でもない、新中間層が誕生した。

 昨今「サラリーマン」という言葉を私たちは普通に使っているが、実はその言葉が日本に浸透したのは大正後期から昭和初期にかけてのことだった(鈴木貴宇『〈サラリーマン〉の文化史―あるいは「家族」と「安定」の近現代史』)。「俸給生活者」「知識階級」「中流階級」「新中間階級」と呼ばれた彼らが「サラリーマン」として世間に広がっていくのが、ちょうど大正後期だったのである。

 その背景にはいくつかの時代変遷が存在する。まず明治時代、高等教育機関の卒業生──「知識階級」の青年たちが、民営の企業に勤め始めた。そこには日清・日露戦争後の株式会社設立ラッシュという企業側の事情があった。「近代的な経営ができる人間がいい *1」「官尊民卑なんて風潮をなくすために、品性ある人間に入ってきてほしい」(竹内、前掲『立身出世主義』)という企業の声が、彼らを採用させるに至った。

 もはや「雇うなら士族階級がいい!」なんてわがままは言ってられない。教育を受けたエリートを企業が必要としたのである。身分よりも能力が重視された時代への転換が起こったタイミングだった。ちなみに年功賃金制度や新卒一括採用といった、日本のサラリーマン雇用慣習も、徐々に普及していった(菅山真次『「就社」社会の誕生―ホワイトカラーからブルーカラーへ』)。

労働が辛いサラリーマン像、誕生

 しかし大正時代に入り、日露戦争後の物価高や不景気が日本を襲う。

 若者たちは、せっかく学歴をつけたにもかかわらず、下級職員──当時は「腰弁」と呼ばれた。毎日弁当を持って出勤する安月給取りを意味する言葉だ。なんという悪口──にならざるをえなかった(鈴木、前掲『〈サラリーマン〉の文化史』)。その給料は思いのほか安く、彼らは想像していたようなエリート層にはなれなかった。彼らを待っていたのは、長時間労働や解雇の危機、そして思うような消費もままならない物価高だった。

 鹿島あゆこは、論文「『時事漫画』にみる『サラリーマン』の誕生」にて、サラリーマンを戯画化した大正時代の漫画を分析した。それによると、大正時代初期から中期にかけて、サラリーマンという言葉に「社会状況や雇用主によって生活基盤を左右されやすい被雇用者」であるというイメージがついていたというのだ。

 労働者階級とは違う自分を誇示するために、見栄のために食費を削ってまで、服飾費にお金をかけるサラリーマン。しかしその服飾費や交際費に金をかけようとすれば、物価高に苦しめられてしまう。

 つまり、サラリーマン=物価高騰や失業に苦しむ人々、という図式が社会に定着していた。上司にはぺこぺことおもねり、自分の見栄えを気にして給料に見合わない高い洋服を買い、休みは減らされながらもそれでも働き続け、しかし常に解雇の恐怖と隣り合わせ──。現代にも通じる「労働が辛いサラリーマン像」ができ上がったのは、実は大正時代だったのだ。

 実際、鹿島の紹介する北沢楽天による時事漫画を見ると、現代と変わらないサラリーマンの悲哀が描かれていることに驚いてしまう。たとえば1922年(大正11年)7月の「時事漫画」に掲載された「能率試験」というタイトルの漫画。能率が良くなければ勤務時間延長の針山、あるいは暑中休暇全廃の釜、失業の谷に投げ込まれていく労働者や会社員たち……。涙なしには見られない。休日返上、勤務時間の延長、といったキーワードは100年経っても変わっていない。「労働に苦しむサラリーマン像」が大正時代にすでに描かれていた。

「立身出世」を目指した明治の若者たちの行く末がこんなところにあったなんて、いったい当時の誰が思っただろう。そりゃ、どの本も暗い内容であるのもさもありなん。こんな状況じゃ、スピリチュアル小説も貧困層の小説も流行るよな……と妙に納得がいってしまう。

*1 鈴木貴宇は『〈サラリーマン〉の文化史』で『日本のサラリーマン』(松成義衛・田沼肇・泉谷甫・野田正穂、青木書店、1957年)を引用し、この意見を「従来の解釈」としている。

<第4回に続く>

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