「不器用なクマ科なのにパンダはなぜ竹を握れるのか?」直木賞作家・千早茜の「傷」にまつわる愛読書【私の愛読書】

文芸・カルチャー

公開日:2024/6/16

千早茜さん

 著名人の方々が、お気に入りの本をご紹介するインタビュー連載「私の愛読書」。今回は、直木賞作家の千早茜さんにご登場いただいた。

 千早茜さんは、2024年4月26日、短編小説集『グリフィスの傷』(集英社)を刊行。それぞれ異なる「傷」の物語が10篇収録された本書には、著者の深い祈りが込められている。

 子どもの頃から傷に興味があったと語る千早さんに、「傷」に関連する小説や専門書など3冊をご紹介いただいた。物書きならではの視点で選ばれた3冊は、言葉や表現に携わる人にとって、参考になる点が大いにある。

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解剖学専門家の言語化能力に感嘆する医学書『パンダの死体はよみがえる』

――千早さんの愛読書を教えてください。

千早茜さん(以下、千早):新著『グリフィスの傷』が「傷」の物語なので、今日は「傷」に絡めた愛読書を3冊選んできました。遠藤秀紀さんの医学書『パンダの死体はよみがえる』(ちくま文庫)、アゴタ・クリストフ氏の名作『悪童日記』(ハヤカワepi文庫)、川上弘美さんの小説『センセイの鞄』(文春文庫)の3冊です。

パンダの死体はよみがえる
パンダの死体はよみがえる』(遠藤秀紀/ちくま文庫)

――まずは、『パンダの死体はよみがえる』について、本書のどんなところに惹かれたのでしょうか。

千早:科学の本として読んでも面白い本なんですけど、この作品は文章の勉強にもなると思います。

 クマ科の動物は、すごく不器用なんですよ。そもそも「物を握る」能力を、人間以外の動物はほぼ持っていないんです。それなのになぜパンダは竹を握れるのか、その仕組みを解明したのが、本書の著者である遠藤先生です。

 人が物を握る時の動作を、解剖学用語で「母指対向性」というのですが、これは類人猿みんなができるわけではなく、チンパンジーですらちょっとおぼつかない。そういう人間にしかできない「物を握る」動作について、「ここの筋肉が収縮して、第一中手骨がこう動いて…」と、文字だけですべてを説明できる素晴らしさが本書にはあります。

――遠藤先生は、非常に言語化能力が高いのですね。

千早:はい。私達とは違う言語の使い方をするのが解剖学の先生で、人体や生物の体の仕組み、筋肉、骨の動きを言葉によって説明できるすごさを感じながら読むのが好きなんです。体のすべての部位に名前があるというのも感動します。

 遠藤先生は、亡くなった動物に対しても「遺体」という言葉を使います。「遺体」は本来、人間の体にしか使わない言葉なのですが、先生は科学者であると同時に、文化的な感覚もお持ちの方で。そういうところにも惹かれますね。

千早茜さん

各章の切り口と徹底した客観的描写が光る、アゴタ・クリストフの名作『悪童日記』

――では次に、『悪童日記』の魅力について教えてください。

千早:『悪童日記』は、最強の双子が登場します。彼らのことが本当に好きで、辛いことがあると、この双子みたいになりたいと思うんです。この双子は、いつも自分を鍛えています。鍛えるためにお互い殴り合ったり、ひどい言葉で罵り合って動じない精神を手に入れようとしたり。凄惨な内容ではあるのですが、こんな強さを持って生きられたらな、と。

『悪童日記』は短編ではないけれど、各章に衝撃的な切り口があります。それと、余計なことを極力書いていない。「戦争」という言葉は出てくるけど、「どこの国の戦争」かは書いていないし、人物の名前の注釈もありません。でも、戦争が起きていることや徐々に戦局が悪くなっていく様子は日常から伝わってきます。今回、久しぶりの短編を書くにあたり、本書のような無駄のない切り口を意識しました。

悪童日記
悪童日記』(アゴタ・クリストフ:著、堀茂樹:訳/ハヤカワepi文庫)

――物語冒頭に、双子が日記を書く際のルールを決める描写がありますよね。物書きにとって、とても参考になることが書かれていたように思います。

千早:私もそこがすごく好きで、今日も付箋をつけてきました。

“ぼくらは、「ぼくらはクルミの実をたくさん食べる」とは書くだろうが、「ぼくらはクルミの実が好きだ」とは書くまい。「好き」という語は精確さと客観性に欠けていて、確かな語ではないからだ。”

 この部分を読んで、たしかに、と思いました。文章を書く時、自分の感情で書いてしまったら簡単なんですよね。「美しい」を書かずに美しさを描写することが、小説では大事になってくる。「まぶたの光」(『グリフィスの傷』に収録)のラストも、「恋している」気持ちを「恋」という言葉を使わずに書くことを意識しました。

年の離れた2人の稀有な関係に萌える『センセイの鞄』

――では最後に、川上弘美さんの代表作『センセイの鞄』の魅力について教えてください。

千早:実は、「林檎のしるし」(『グリフィスの傷』に収録)は、『センセイの鞄』のオマージュなんです。川上弘美さんの作品は全部好きなんですけど、『センセイの鞄』に登場するセンセイとツキコさんのかけがえのなさが、本当に素晴らしくて。

 ツキコさんはセンセイの元教え子で、居酒屋でただ飲んでいるだけの2人が、付き合って、死に別れていくだけの話なんですけど、その飲みのシーンが魅力的なんですよね。「近所の居酒屋に飲みに行ったら、こんな素敵な人に会えるかもしれない」と、そんな期待を読者に抱かせる飲みのシーンを私も書きたいと思って。でも、やっぱりツキコさんとセンセイは稀有な関係で、こんな2人がゴロゴロいてもらっちゃ困るよなと思い、最終的に破綻させました。

センセイの鞄
センセイの鞄』(川上弘美/文春文庫)

――センセイとツキコさんが野球の話で喧嘩をする場面がありますよね。喧嘩をする時でさえ微笑ましい2人が印象的でした。

千早:あのシーンかわいいですよね。あの喧嘩のしかた、すごくかわいい。あと、ツキコさんと体を重ねることに関して、センセイが昔教壇で平家物語を読み上げたような毅然とした口調で、「できるかどうか、ワタクシには自信がない」と言う場面も好きなんです。一周まわった男の人のかわいさって、こういう感じで出るのかなぁ、と。

――センセイとツキコさんの関係は、相当レアですよね。

千早:レアですね。大抵、もっとお互いの狡さや欲が出てきて、ぐちゃぐちゃになっていくのですが。

――挙げていただいた作品はどれもジャンルがバラバラでしたが、日頃読まれる本の中では、どのジャンルが一番多いですか。

千早:ノンフィクションが多いですね。医学書も、日頃から趣味でよく読んでいます。最近、猫を飼ったので、猫の病気や飼い方の本なども読んでいて。猫の骨、猫の病気、猫のフンや尿など、ちゃんと図解を確認して、何かあった時のために健康な状態と危険な状態の違いを色々と調べています。

 知識が入ってくると安心するし、自分にはない言語化能力に触れるのは、文章を書く上でも参考になることが多いです。

取材・文=碧月はる、撮影=金澤正平

千早茜さん

<第51回に続く>

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