【第3回】ちゃんもも◎『刺激を求める脳』/幸正#1

文芸・カルチャー

2018/8/27

 人生の中で、とあるきっかけによって、まるで違う人の人生に移り変わってしまったのではないかと思うほど、劇的に日々が変わってしまうことがある。

 あれはたしか、少年サッカーチームに入団をしてはじめての試合の日だ。なぜか始めて間もない、素人に毛が生えた程度の技術しかなかった僕がスタメンに入った。

 今考えるとそれだけでも充分不可解であったが、むしろ問題はそこからだ。

 はじめての試合で緊張に心を支配されながらも、いざ試合が始まってみると、誰かがスマホでボールを遠隔操作しているのではないかと真剣に疑ってしまうほど、ゴール前では僕の前に丁度よくボールが転がってくる。そしてそんなものは、ただゴールに向かって蹴り込むだけなのだから、仮にそれが僕でなくたって、偶々そこにいたのが誰であっても確実にゴールになっていた。

 それからというもの、そんなことが不思議と僕にだけ幾度となく繰り返され、おかげで僕はサッカーをはじめて数ヶ月で地域の得点王になった。

 それからも、そんな不思議な出来事は続き、高校にもスポーツ特待生で進学したし、県の代表選手にまでなった。

 僕の出場する試合には、プロのクラブからスカウトが来ているなんて噂まであったが、そんなことは僕自身が一番望んでいなかったし、そんな将来有望な選手である自覚が僕にはなく、なによりも僕はサッカーという競技がそこまで好きではなかった。

 いつのまにか、とうとうエースナンバーまで背負う事になった僕は、学校中の期待までをも背負い込み、昼に購買に行けば買ったものとは別に、職員のおばちゃんからパンやら牛乳やら、これで商売ができるのではないかというくらいに色々な物を貰い、用事で職員室に行けば、年配から新卒で赴任してきた女の先生、果ては教育実習生というそんなに歳の変わらないお姉さんから、これでもかというほどチヤホヤされた。

 間違って怪我でもしようものなら、四方八方から過剰に気を使われ、試合までには必ず治りますようにと、学校中の女子生徒から連名で鶴まで折られる始末だった。

 何を期待したわけでもなく、ほんの暇つぶしや親への言い訳程度に始めただけだったのに、生まれてはじめて人前で蹴ったサッカーボールが、偶然にも相手側のゴールネットに突き刺さった瞬間、僕の人生は劇的に変わった。

 期せずして、望みもしていないのに僕はこの街のスターにされ、それからというもの、とにかくあらゆるところでモテまくった。

 歩いていて思いっきりすっ転ぶところを見られても、社会の窓が果てしなくオープンであっても、それはカワイイで片付けられ、機嫌の悪いときにたまたま蹴った石ころが強引にナンパを仕掛けていた不良の後頭部に命中し、結果的には不良を撃退し、ナンパされていたお姉さんを助けたことになっていたり、やること為すことがすべて期せずして僕にとって都合のいい方向に転がった。

 永かった高校生活も終わりが近づき、部活も引退を迎えた。元々大学に進学するタイミングで引退を決めていた。

 これでようやく、望みもしなかったサクセスストーリーから外れることができる。偶然の重なりであったとはいえ、それまでが単純に出来過ぎだったのだ。

 自覚のない、ただの夢物語。

 あの購買のおばちゃんたちも、先生たちも、女子生徒たちも、所以のない熱病に罹っていただけだ。

 やっと解放される――。

 そもそも僕は目立つことが嫌いだし、有名になりたいだなんて思っていなかった。

 誰も本当の僕を見てくれていない。

 どこに行ってもみんなが僕のことを知っているような生活にはつくづく嫌気が差していた。なんでもないただの大学生になれば、本来の僕の身の丈にあった生活に戻れる。

 地元の大学を出て地元の中小企業に就職し、平凡な家庭を築き、産まれてきた子供の将来に心を躍らせて歳を取っていくのだろうと思っていた。

 だが、僕の生まれたこの狭苦しい街の中で、世間は僕に平凡な生活を許してはくれなかった。僕は当たり前のようにサッカーを続けることになっていたし、おまけに日本国内ではレベルが合わないという理由から、卒業してすぐにヨーロッパに行くという噂が立ち、

「イタリアに行っても頑張ってください!」

 と書かれた寄せ書きまで貰った。

 僕は何が悲しくて毎日パスタばっかり食べなきゃいけないのか。何が悲しくて行ったこともなければその想像すらしたことのないイタリアへ行き、毎晩ピザを食べて「ボーノ!」と言わなければならないのか。

 僕の生まれ育った街の中でだけ、僕の熱狂的なファンが量産されていた。

 何が周りをこんなにも熱くさせていたのだろうか。

 終わると思っていた夢物語は続き、僕を解放するつもりがないということを知った僕は、いっそのこと生まれ育った街を出る決心をした。

 それまでは赤点だろうが何だろうが、まったく気にせずにいられた環境から打って変わり、僕は猛勉強をはじめた。東京の大学に行く為だ。

 もうこんな街とはおさらばだ。誰も僕のことなんか知らないところに行くのだ。

 不思議そうに僕に向けて投げかけられる視線を無視し、誰に目的を伝えるでもなく、人生初の努力をし、学校が終わればまっすぐ家に帰り、机にしがみついた。

 しかし、それまでほんの少しの努力もしてこなかった僕に、そんな毎日がいつまでも続く筈がなかった。雪が降る頃にはすっかり自暴自棄になり、机よりもベッドの上で一生懸命になることの方が多くなっていた。

 それまで努力という努力をしたことがなかったのだから、当然といえば当然の結果だったのかも知れない。

 そんなある日、毎日取って代わったように連れ込んでいた中の一人の女の子に、不意に真剣な想いを伝えられた。田舎なりに垢抜けて浮ついた他の軽い感じの子とは違い、割と真面目で控えめな、黒縁メガネと黒髪がよく似合う子だった。

 唐突に、大学に進学するのなら私も同じ大学を受験したいと涙目で哀願された。偏差値や成績なんて、その子のほうが比べ物にならないほど高いのに。

 彼女は気づいていたらしい。高校を卒業したら、もう僕に会えなくなることを。この街に嫌気が差し、僕がどこか遠くへ行くつもりなのだということを。本来の僕はあまり目立つことを得意とせず、好きなことを好きなとおりにやっていきたい人だということを。

 それが原因かはわからないが、時折すごく寂しそうな顔をしていたと言っていた。

 まさに晴天の霹靂、心を雷に打たれたような気持ちだった。

 この子だけは、熱病に罹った訳ではなく、もしあんな出来過ぎた夢物語がなかったとしても、僕のことを好きになってくれていたかもしれない。そう思うと、心の底から嬉しさやら悲しさやら奥のほうにしまい込んでいた感情と共に、目から涙が勢いを付けて飛び出してきた。

 彼女には本当のことをすべて話そう。すべて『ただの偶然』だったと。

 彼女は笑った。

 目を見開き、さっきまでの清純なイメージがどこか遠くに飛んでいったかのように腹を抱えて笑っていた。

 それはそうだ。こんな漫画みたいな話、現実にはなかなかないだろうから。

 ヒーヒー言いながら笑い転げる彼女を見て、正直まあまあブスだと思った。そして、奥のほうにしまい込んでいた感情が勢いを付けて飛び出した挙句、本当のことをすべて話そうと思った事を心の底から後悔した。

 一頻り笑い、なんとか必死で笑いを堪えながら彼女は言った。

「勉強、見てあげるから一緒にがんばろうよ。がんばって合格して、そんなこと誰にも話さなくてもいいように、二人でどこか遠くの大学に行こうよ」

 その瞬間、彼女が天使に見えたのは言うまでもない。この子となら頑張れる、どこまででも一緒に歩んで行ける、そう思った。

 それからは毎晩机に向かい、教科書や参考書や色々な物を開き、ノートにペンを走らせながら、彼女と逢瀬を重ねた。努力した甲斐は確かにあり、彼女の甲斐甲斐しいご指導ご鞭撻もあって、成績はみるみると上っていった。

 こんなに楽しくて充実した日々がそれまであっただろうか。

 楽しい時間こそあっという間に流れていき、とうとう試験当日になった。いつもより早起きをし、準備を整えて少し早めに家を出た。そして向かった。彼女とは違う大学の試験会場に。

 僕は待ち合わせの場所には行かなかった。

 自分のことも大変な中、苦労も厭わず毎晩遅くまで勉強を教えてくれていた最愛の彼女を僕は裏切った。

 僕は東京の試験会場に、彼女は東京ではないどこか遠くの大学に向かった――。

 僕が彼女を裏切った理由は、いくつかあった。

 まず、僕にはちゃんとした彼女というものがいたことがなかったが、あれだけモテていた僕に本命の彼女がいなかったのには理由があった。

 恋仲になりかけた女の子はいたが、ある日突然その女の子は不登校になり、学校に来なくなるのだ。まったくの音信不通になり、しばらくした後、まるで同じ人物とは思えないほど暗く、死んだ魚のような目をしたその子の姿を見かけるようになる。話しかけようにも、僕を見るとそそくさとどこかに消えてしまうし、とても話しかけられるような様子ではなかった。

 ――何度かそういうことがあった。

 なにがどうなっていたのかはさっぱりわからなかったが、頭のおかしいどこかの誰かの仕業なのだとしたら、彼女にもなにかしらの危害が及ぶ可能性があると思っていた。

 彼女にも話したが、本気にはしてくれなかった。仮にそうだとしても、私はそれでもいいよと笑うだけだった。そして、その屈託のない笑顔を壊さないために僕は待ち合わせた場所には行かず、ひとりで東京に行った。

 それともうひとつ。

 結局、僕はやっぱり完全に一人になりたかったんだと思う。

 彼女と一緒だと、どうしたって結局は地元と交流ができてしまう。なんだかんだと格好をつけていても、それがなによりも正直な理由だった。

 だから僕は、家を出るときにそれまで使っていた携帯電話は持っていかなかったし、家族以外は僕の住所も新しい携帯電話の番号も知らなかった。

 都会で新しい友達と朝まで遊び倒し、ちゃんと彼女もつくり、僕が居ても行列などできないカフェか何かでバイトをし、平凡ながらも慎ましく、それまで感じることの出来なかった小さな幸せを感じながら四年間の大学生活を過ごすのだ。

 卒業しても地元になんか帰るつもりはさらさらなかった。

 これでようやく晴れて僕もただの人になった。

 その筈だった――。

写真モデル=シイナナルミ
撮影=飯岡拓也
スタイリング=TENTEN