「校長との一夜」からの転落人生、最悪のクライマックスが私を踏みとどまらせている【読書日記5冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2019/8/19

2003年1月

 最近、私は美容室に通っています。髪を切るためではなくて、メイクの練習台です。「1カ月後にブライダル用のヘアメイク・メイクコンテストが東京であって、そのモデルを探しているみたいなんだけど、ののかちゃんどうかしら?」と、その美容室の常連さんだった近所の方が声をかけてくれました。私は小学生なのでメイクなんかしたことがなかったし、私自身もお母さんも、私のことを一度も可愛いと思ったことがなかったのでびっくりして、だけど美容室の“先生”が私を見たときに目を輝かせて「私、この子にする!」と言ってくれた日のことは、今も宝物のようにキラキラした状態で覚えています。

 ブライダルモデルになることが決まってから、髪の毛を染めて、毎日メイクをしてもらうようになって、周りの大人たちから「あか抜けたね」と言われるようになりました。あか抜けたね、というのはどうやらダサくなくなったね、という意味らしくて、逆に今までがダサかったなんて気づかなかったので急に恥ずかしくなったけれど、それでも可愛くしてもらえたのは本当にうれしいことだなと思いました。地味で普通だと思っていた自分の人生がキラキラし始めて、ずっとずっとこんな風に楽しくやっていけたらいいなと思います。

 でも、今日のメイクの練習では、美容室の先生が何だか気になることを言っていました。将来の夢を聞かれた私が、「教師になりたい」と言ったときのことです。先生は「あぁ、あなたみたいな真面目な女の子が教師になったら、“嫌われ松子”みたいな一生を送るかもね」と言うのです。私は「嫌われ」という言葉にびっくりして「それってどういう意味ですか?嫌われるってこと?」と聞いてみました。

 すると先生は「ううん、人に嫌われるってわけではないんだけど、なんだろうな、人生や運命に嫌われているっていうか、とにかく不運なのよ。本人はすごくいい人なのにね」と言いました。私は、いい人なのに人生や運命に嫌われるということがあるのだろうかと、意味がわかりませんでした。だって、正しくやさしく生きていれば、必ずいい人生や運命が待っていると思うからです。

 私は不安になって、お母さんに早速その話をしました。するとお母さんは「先生ってすごいこと言うね」と笑っていました。私もつられて笑って、心がすっかり楽になりましたが、やっぱり気になってしまって、本を一冊買ってもらって読むことにしました。

 『嫌われ松子の一生』(山田宗樹/幻冬舎)は、中学教師をしていた松子が“ある事件”をきっかけに職を追われ、そこから人生が転落していくという話でした。まだ読んでいない人に内容を少しだけ伝えてしまうと、“ある事件”というのは、校長に弱みを握られて断るに断り切れず、一夜をともにすることになってしまうというもの。それをネタに脅されるうち、クビにさせられた、というひどい話でした。その後も、好きな男の人にお金を渡して騙されたり、好きな男の人が刑務所に入ってしまったりとひどすぎる状況が続きます。

 美容室の先生が言っていたように、松子自身はとてもいい人なのにどうしてこんな目に遭うんだと、私は怒り出したいような気持ちで読みました。だって真面目に勉強をして、真面目に働いて、真面目に生きている人が損をするだけでなくて、こんな仕打ちに遭うのは間違っています。正直に言って面白いとは思いましたが(松子さんごめんなさい)、こんな話には現実味がないと思いました。

 だから、美容室の先生が「あなたは真面目な教師になって、転落人生を送る」と言ったことも、やっぱり変だと思います。真面目に生きていればいいことがあるってお母さんもいつも言っています。真面目に生きている人が人生に嫌われるなんて、あってはいけないことだと思いました。

2015年1月

 2003年1月というのは、私が中学生になる直前の冬だった。今振り返れば、まだ私が小学6年生だったにも関わらず、美容室の先生は私に“大人”として接してくれて、そのことが無意識のうちに感じられて心地よかったのを覚えている。だからこそ、あんな本を勧めて、あんなことを言ったのだと思うけれど、発育が早く、身長がすでに160cmあり、身体がほとんど成熟しきっていた私も中身はきちんと小学6年生だったから、当時は先生が言っている意味がわからなくて、物語の内容にショックを受け、憤慨していたのだった。

 その頃から数えてちょうど11年後、私は新卒で入った会社で休職をしていた。そのときに「元気づけてやる」と言って、ほとんど喋ったこともない上司に呼び出され、一緒に飲みに行ったところ、ホテルに誘われた。何度も断ったものの、「このまま断り続けたら、復職したときに嫌がらせをされるのではないか」という考えが頭をかすめて、「ホテルに行くだけ」という言葉の裏にある含蓄を知りながら、知っていたからこそ前後不覚になるまで酒を一気飲みしたのだった。性的同意にそれが当てはまるのかどうかといった点はさておいて、擁護されるとしても、そのときのことは悔やんでも悔やみきれない。今でもたまに映像が頭をシュッとかすめては、忸怩たる気持ちでいっぱいになる。

 その後も、会社を辞めて家のない生活をしたり、男の人にお金を積んだり、結婚詐欺に遭いかけたり、結婚したり離婚したりと、さまざまな失敗を経験したり、アクシデントに見舞われたりした。自分の人生なのに“見舞われた”という言い方は無責任なようだけど、「真面目に生きていたら降りかかってきた」という実感があり、やはり見舞われたという言い方が適切であるように思う。

 そんなとき、私が思い出すのは『嫌われ松子の一生』なのだった。真面目に生きてきたはずの女性が、“ある事件”を機に人生を転落させていく。そんな理不尽で、不条理な物語に憤慨していたはずの私が、そのうえをトレースするように生きている。そのことに気づいたとき、11年越しに物語の懐の広さを知ったのだった。

 著者がそこまで意図していたかはわからない。もしかすると、(私はそういった文脈が好きではないけれど)「不運に見舞われてもひたむきに生きる女性の生涯」を通じて感動を呼ぶことを想定していたのかもしれない。あるいは「こんなにひどい話だけど、それに比べて私は幸せだ」と、物語から距離をとって無責任に安心を得る人もいるだろう。

 仮にそうだったとしても、主人公である松子を“当事者”目線で見ている私にとっては、他人事ではない。だからこそ、あの物語を一つの道標にして、それとは逆のほうへ逆のほうへ進もうとすることで人生に希望を見出しているようなところがある。あの物語や松子を人生の先輩、あるいは反面教師にすることで救われているのだ。

 小説では悲惨に、厳しさの手を緩めた映画版でも穏当とは到底言えないかたちで、物語は幕を閉じる。シリアスかつ“感動的”に描かれる小説のトーンも、コミカルな悲喜劇のような映画のトーンも私は好きではない。それでも救いを見出せるという物語の尊さが身に染みるたびに、私もまた書き手であり続けたいと思うのだった。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka