「カップ麵ばっかりじゃ身体壊すぞ」長いあいだ続けてきた働き方は変えられない?『残業禁止』②

文芸・カルチャー

更新日:2019/11/3

  

 残業はするな、納期は延ばすな――成瀬課長の明日はどっちだ!? 成瀬和正、46歳。準大手ゼネコンの工事部担当課長。ホテル建設現場を取り仕切る成瀬の元に、残業時間上限規制の指示が舞い込む。綱渡りのスケジュール、急な仕様変更……残業せずに、ホテルは建つのか?

 部下たちがぽつりぽつりと事務所に戻ってきた。10時には副所長の大田久典、浅田しのぶ、熊川健太、そして砂場と全員が揃った。職人は午前10時と午後3時に30分ずつ休憩する。その間は立ち会う作業そのものがなくなるのだ。

 しかし現場監督たちはみんな、時間を惜しむようにデスクに向かう。

「どうぞ」

 一人一人の席に、好みに合わせてコーヒー、紅茶、緑茶を近藤が持ってゆく。

「ありがとう」

 短く言葉を返すだけで、パソコンの画面から顔を上げようとしない。ひどいのは無言だ。

 職人の休憩が終わるとまた出ていった者もいたが、今度は短時間だった。毎日11時からは、現場監督とサブコンの職長が集まって、事務所隣の会議室で打ち合わせをすることになっている。

 例えば年が明けて始まった低層階の軀体工事では、まず鳶が鉄骨を建て込み、足場を吊ったら、溶接工やボルト本締め工が鉄骨をつなぎ合わせる。デッキプレートを敷き、一階分ずつ鉄筋を配置して型枠で覆ってはコンクリートを流し込む手順を繰り返す。それぞれを担当するのがデッキ工、鉄筋工、型枠大工、コンクリート圧送工や土工、左官だ。

 前の工程が終わっていなければ、後の工程を担当する職人は仕事にならないが、順番に進めるのではとんでもなく時間がかかるため、工区を分け、なるべく並行して作業できるよう調整するのが打ち合わせの目的だ。

 仕切り役は全体工程表の作成を受け持つ大田。このところ頭のてっぺんが寂しくなってきたせいで老けて見えるが、成瀬より五つ年下である。

「イワキさん、来週は人が出せるって言ってたんだよね」

 大田が鉄筋工の職長である荻野正男を見た。

「そうすね。その気になったら20人くらい増やせるかな」

「だから、一階の残ってる梁をできるだけ早く渡して鉄筋作業の準備をしたいんだけど──」

 梁になる鉄骨をクレーンで運ぶ時、作業員がいる工区の上を通すわけにはいかない。大田の視線は次に山本修一に向けられた。今一階に陣取っている型枠大工の職長だ。

「そんなにすぐには終わらないよ」

「クレーンの場所変えたらなんとかならないかな」

 現段階で使われているのは、キャタピラ付きクローラークレーンである。しかし鳶の職長、松岡隆も「無理」とそっけなかった。

「どこ持ってっても多少は引っかかるね」

「そうか。もったいないんだけどなあ」

 大田は落胆と未練をにじませながら「じゃあイワキさんの増員はなしにして」と言いかけた。

「鉄筋を先組みしてもらうことはできませんか」

 口を挟んだのは、鉄骨工事担当の浅田だった。梁に地上で鉄筋を組みつけてしまったらというわけだ。鉄筋工もずっと作業がしやすくなる。しかし大田が採用しなかったのにはわけがあった。

「作業スペースがないだろ」

「今朝は仮置きヤード一杯まで鉄骨を入れましたけど、次から小分けしてもらったら三分の一くらい空けられると思います」

 大田はその手があったかという表情になった。

「それなら大丈夫だよ」

 鉄筋関係の作業をメインで担当している熊川が応じ荻野もうなずいた。

「毎日必要な分が遅れないなら構わない」

 松岡が承諾するのを待って成瀬は「それで行こう」と話をまとめた。

 話し合われたすべての問題がきれいに解決したわけではなかったけれど、ともかく決めることをなんとか決めて打ち合わせは終わった。

 いくらもしないうち、正午を知らせるサイレンが鳴った。事務所には成瀬、近藤のほか、工程表の修正に取り組む大田と、搬入の段取り変更を電話で交渉している浅田がいた。

「飯、行くか」

 成瀬はまず大田に声をかけたが、「もうちょっとやっときたいんで」と断られた。

「カップ麵ばっかりじゃ身体壊すぞ」

「気をつけます」

 浅田はと見ると、交渉に手間取っているのか受話器を置く気配がない。近藤は弁当なので成瀬は一人で外に出た。

 どこにしようか考える。山下公園と中華街のほぼ真ん中という、横浜の中でも特に華やかな土地柄だから店はいくらでもあるが、一人では気分が乗らなかった。何より成瀬のやるべきことも山積みだ。

 向きを変えてコンビニを目指す。中に入るとチェリーホテルの現場から来たのだろう職人たちが弁当を選んだりレジに並んだりしていた。向こうも成瀬に気づいて目くばせを交わし合うが、職長ででもなければ顔を知っているだけだから挨拶まではしてこない。

 成瀬も鶏飯弁当を買ってそそくさとコンビニを後にした。ゲートをくぐり、プレハブ一階の職人休憩室が賑わっているのを眺めて2階へ上がる。

 今更ながら浅田の弁当も買ってやればよかったかなと考えた。いや、必要だったか分からないし。一方で、結局彼女もコンビニ弁当になったら、自分が薄情者みたいだなんて心配もしてしまう。

 部屋に浅田の姿はなかった。成瀬は気になって「飯、食いに行ったみたいだったか。買ってくるってか」と、カップ麵をパソコンの脇に置いて仕事を続けている大田に訊ねた。

「あいつ、東メタさんに呼ばれちゃいました」

 大田が口にした「東メタ」、東洋メタルは、鉄骨の制作工場である。

「えっ。搬入を分けるくらい電話で済まなかったのか」

「それはすぐ話がついたみたいですけどね。タワークレーン用の補強の話だったかな。向こうからすると、いいところに電話がかかってきたんでしょう」

 気の毒だがどうしようもなかった。浅田だけではない。打ち合わせのあと出ていったきりという熊川や砂場もきちんと飯にありつけている保証はない。職人がいないあいだのほうが、出来栄えの検査などははかどらせやすいのだ。

 午後も状況は変わらない。職長との打ち合わせ以外にも会議はあるし、本社から人が来ての講習会、勉強会などが入ればもっと時間を奪われる。この日は幸い何もなかったが、予定外の出張をしてしまった浅田は、そのあと事務所に入ってくるのも出ていくのも、小走りになっているように見えた。

 五時、終業サイレンが鳴った。職人たちは四時半から片付けを始めていて、サイレンとともに帰ってゆく。

 だが現場監督にとってはここまでが第一部みたいなものだ。昼間は昼間しかできない仕事を優先せざるを得ない。それ以外のデスクワークが大量に積み残されている。

 工程表作り。さまざまな資材、人員の必要量を計算する、業界用語で「数字を拾う」といわれる作業。施工図の準備。職人は設計図だけでは作業できない。具体的にどんな部材をどう組み合わせるか、「納まり」が分かる施工図を別に描く。外注もするがチェックは必要だ。

 施主や社内の管理部門、役所向けにも膨大な書類が必要になる。

 施工報告書は、まず添付する写真の量がとんでもない。要求するほうも絶対全部は見ていないと思う。しかしトラブルがあった時火の粉をかぶらないよう、用心は怠れない。昼間から撮影に手間を取られ、夜はその整理だけですぐ1、2時間過ぎてしまう。ほかにも各種の検査報告書、資材搬入報告書、打ち合わせ記録、職人たちの出入り記録などなどがある。

 深夜、時によっては日付の変わった後まで居残るのが現場監督の常態だった。長く週休一日だった現場作業そのものは、このごろ隔週の土日休みくらいにまでなってきたが、現場監督に限って言えばその半分も休めればいいほうだ。

 この工事のために態勢が組まれた段階から、成瀬は本社へ増員を願い出ていた。さらにいえば前の現場、前の前の現場、所長をやるようになって以来ずっとそうだったが、かなえられたためしはない。

 どんどん出てくる案件を会社は片端から受注する。抑えればよさそうなものだが、今みたいな状況がいつまで続くか分からない。オリンピック後に需要が激減するだろうと囁かれているし、消費税も上がる。稼げるうちに稼がねばならない。社員を増やすことも同じ理由で二の足を踏まれる。

 しょうがない、しばらく歯を食いしばるしかない。ため息をつきつつ、目薬でもさしてパソコンなり紙なりに立ち向かう。それがサラリーマンというものだ。

 なんてことで済んでたころもあったよな、と成瀬は考える。そんなに昔ではない。5年前、いや3年前だって、長いあいだ続けてきた働き方はちょっとやそっとじゃ変えられないとほとんどの人間は思っていた。

<第2回に続く>