「昇給したのに、手取りが4万減って…子供の塾やめさせる?」『残業禁止』④

文芸・カルチャー

更新日:2019/11/3

  

 残業はするな、納期は延ばすな――成瀬課長の明日はどっちだ!? 成瀬和正、46歳。準大手ゼネコンの工事部担当課長。ホテル建設現場を取り仕切る成瀬の元に、残業時間上限規制の指示が舞い込む。綱渡りのスケジュール、急な仕様変更……残業せずに、ホテルは建つのか?

「もうじきタワークレーン入りますね」

 しばらく呆けたような表情をしていた大田がふいに口を開いた。

 二階までは鉄骨の建て込みもクローラークレーンでやってきたが、工法が変わる三階からは軀体に取り付けたタワークレーンを上昇させながら進めることになる。

「タワークレーン入れると、これで最後まで建つことは建ちそうだなって思えますよね」

「建ち切らなかった経験なんてあるの?」

 ちょっと驚いた成瀬に訊ねられて、大田は「いやいや」と首を振った。

「そういうわけじゃないですけど──何回やっても不思議じゃないですか。何もないところにあんなでっかいものがいつの間にやら出来ちゃうんですから」

「いつの間にやらって」

 成瀬は笑った。

「俺たちがいろいろやってるんじゃないか。どえらい苦労して」

「そこが信じられないんですよ。俺なんかにどうしてできたんだろうって。最初のうちはどこか冗談ぽく感じてるところがあって、やっと腑に落ちてくるのがタワークレーン入れるころからだっていう」

「面白いこと考えるんだな。俺はそこまでタワークレーンに思い入れないわ」

 成瀬はお通しのマカロニサラダを口に運んだ。六時ごろにみんなで出前を取ったが、頭を使うからかまた腹が減っていた。メニューを睨んで煮込みと軟骨揚げを選び、生のおかわりと一緒に注文する。

「浅田、ほんといいですよね」

 またしても唐突な大田のつぶやきだったが、今度は成瀬も大きくうなずいた。

「アイデアが出るし、それを実現させる馬力もある」

「このごろの女は優秀なんですよね。大分前からか」

 言って大田は「現場に残る覚悟があるくらいの女はってことでしょうけどね」と補足した。

 確かにそうだろう。人手不足もあり業界は女性の受け入れに力を入れている。「けんせつ小町」という呼び名を浸透させようと躍起だし、実際サブコン、ゼネコンとも門を叩く女性が増えたが、現場監督を続けるのは特にハードルが高い。結婚はともかく、子供ができれば設計もしくは管理部門に配置換えが普通だ。辞めるケースも少なくない。

「勿体ない気もしなくはないですけど」

「仕事がやっと分かってくる時分だからな」

 大田は一瞬けげんな顔をした後、にやっとした。

「俺が言ったのは、浅田も結構いい女なのにってことですよ。俺の同期にも告ったのがいましたね。10年くらい前らしいですけど。堅いのかな。よっぽどレベル高い男だったらなびくのか」

「セクハラだぞ」

「本人の前じゃこんな話しませんよ」

「何にしても、浅田がいてくれて感謝、感謝だ」

 話の方向を変えようと成瀬はそう言ったのだが、大田が次にまな板に載せたのはもう一つのデリケートな問題だった。

「浅田にひきかえ、ですよね。まったくケンタ君にゃ困ったもんだ。名前だけはマッチョっぽいから笑っちゃいますよ」

 確かに「熊川健太」の名前は、顎が細くて神経質そうな容貌とマッチしているとは言いがたい。しかし大田が熊川をあげつらうのは、もちろん容貌のせいではない。

 熊川は、労務部のイエローカードを受けたことがない。毎日、5時10分きっかりに帰るからだ。今日も終業のサイレンが鳴った突端、熊川はチェック中の施工図をまだ十枚以上ありそうな未チェック分に重ねて揃えた。

「やっときます」

 熊川の担当分野の多くにサブとしてついている砂場が手を出すのもいつものことだ。そもそもそのために砂場をつけている。

「ありがとう」

 礼を述べる熊川は少し表情を硬くしているようでもある。それでも黙ってロッカーに向かい、鞄をつかんで事務所を出てゆく。

 保育園の迎えだそうだ。34歳、結婚して4年目という熊川だが、子供ができたのは1年ちょっと前で、この現場が始まる直前に妻が仕事に復帰した。勤務地も自宅から1時間以内という希望を通してここに来たのだが、保育園の延長保育が6時までしかなく、どうしても5時10分に出ないといけないらしい。

 妻のほうは映画会社の広報で夜の試写会なども多いというのが熊川の説明だった。イクメンが称揚される世の中、反論は難しいがもやもやは残る。仲間が青息吐息なのに一人「お先に」なんて、自分の若いころだったら殴られただろう。

 時代の変化は変化として、成瀬には自分の感覚が事務所内で浮いていない自信があった。同じ世代といっていい大田はもちろん、砂場も平静を装いながらかなり頭に来ている。帰ってゆく熊川の後ろ姿に小さく舌打ちしているのが前に聞こえた。一番の被害者だから当たり前だ。

 浅田は「しょうがないですよ」と一応擁護してみせる。保育園の話などがからむと、女として理解を示さないといけないところもあるだろう。しかし浅田が「こちら側」なのは働き方を見れば分かる。事務所で一番の長時間ワーカーは間違いなく彼女だ。かつ手抜きのない仕事ぶりは時に古風にさえ見える。大田からだけでなく、絶賛される所以である。

「所長だって、熊川には腹立ててるんでしょ」

「喜んじゃいないが」

 仕方なく認めつつ成瀬は「文句言えないだろ」と釘を刺した。

「給料もその分少ないんだし」

 大田を余計に刺激してしまったが後の祭りだった。

「少ないたって、あいつは働いた分全部貰ってるじゃないですか」

 大田の口調が怒気を帯びる。

「所長に隠してもしょうがないからはっきり言いますけど、手取りで4万近く減りましたもん。昇給してるのに、ですよ。子供の塾やめさせようかって本気で考えました」

 大田の子供は上が9歳で、成瀬の下の子と同じだ。金がかかる事情はよく分かる。

「お前も早く管理職になるしかないな」

「そのころにはサービス残業が徹底的に取り締まられるんじゃないですか。穴埋めは全部管理職ですよ。所長が毎日現場泊まり込みで施工図チェックとか。ぞっとしませんか」

 見事な、というのもやるせないが的確な逆襲だった。成瀬自身恐れていることだ。業界によってはすでに管理職地獄が始まっているらしい。

「明るい未来はないってことか」

 ふざけた調子を出そうとしたが、成瀬の声も陰りから逃れられなかった。急に酔いが回ってきた。大田も一杯目のお湯割りを飲みきっていないのに顔が真っ赤だ。

「ぼちぼち帰るか」

 まだ大丈夫ですよとつぶやく大田を強いて、成瀬はささやか過ぎる宴を切り上げた。勘定は成瀬が持った。大田は一応抵抗したが、短いやりとりのあと「ごちそうになります」と頭を下げた。

 地下からの階段の途中で、冷え込みを強めた風が吹き付けてきた。大田は、首をすくめた拍子にか足を踏み外してよろけた。

「かなりきてるな」

「そうすね」

 素直に認めた大田は地下鉄に乗るので、JRを使う成瀬と店の前で別れた。

「気つけてな」

 歩き出した後ろ姿に声をかけると、大田はくるりと振り返って「大丈夫す」とやけのような声で返事をし、また遠ざかっていった。

<第5回に続く>