おむつ交換にミルクの温め、寝かしつけ…“子育て児童”は、小学校に入学してはじめて「外の世界」を知ることに『里奈の物語』④

文芸・カルチャー

2020/1/14

物置倉庫で育った姉妹(里奈と比奈)は、朝の訪れを待ちわびた。幾つもの暗闇を駆け抜けた先に、少女がみつけた希望とは―。ルポ『最貧困女子』著者が世に放つ、感涙の初小説。

『里奈の物語』(鈴木大介/文藝春秋)

 それから4年近く、里奈にとってのすべては、比奈だった。里奈が最も頻繁に倉庫で過ごしたのは、比奈が生まれてすぐのころだ。幸恵からすれば、本来ならとても幼い里奈に任せておけるはずもない乳児の比奈を、少しでも職場の近くに置きたかったのだろう。ときたま里奈と比奈以外の子どもも預けられることのあるこの倉庫は、その敷地の長屋店舗で身を寄せ合うようにして営業する飲食風俗店で働く女性らにとっての簡易な託児所代わりになっているようだったが、週のうち大半をそこで過ごしていたのは、里奈と比奈だけだった。

 けれどそんな環境の中、比奈のおむつの交換からミルクの温めや入浴、寝かしつけまで、ほとんどを当時まだたったの4歳だった里奈が手伝った。比奈の離乳は早かったが、瓶詰の離乳食への移行だって、自力では瓶の蓋を開けることもできないほど幼かった里奈が、周囲の大人の力を借りながらも成し遂げたのだ。

 ふたりは倉庫以外にもあちこちの幸恵の友人宅に預けられ、その都度友人たちも比奈の面倒を見てくれるのだが、結局大人たちは比奈のことは里奈に任せたほうがいいと結論を出すことになった。それは里奈だけが知る、比奈を扱うコツがあるからだ。

 寝るときに首の後ろにちょっと挟み込むハンドタオルの絶妙な厚み。泣き止まぬときに後ろから抱いて揺するテンポ。顔が濡れることを極端に嫌がる比奈を泣かさずに風呂に入れる方法。

 比奈を抱くと、いつでも里奈の胸は、暴れ出したくなるような凶暴な幸福感で一杯になった。ホッとする、そんな言葉じゃとても表せないほど、それは強烈な幸福感で、嬉しくて里奈は預けられた部屋の中をバタバタと駆け回っては、また比奈の元に戻ってはだっこするのだった。

 里奈が一番気に入っていたのは、比奈の髪の毛だ。比奈は髪の毛が美しい子どもだった。満1歳を前にしてしっかりと生え揃った髪の毛は、色が薄くて輝いていた。預けられた幸恵の友人宅、比奈を入浴させてもらうたびに、必ずドライヤーを借りる。寒い時期は温風が熱すぎない程度の距離で、夏は涼しい空気で時間をかけてブローしてやるのだ。

 大人たちは赤ちゃんの皮膚は弱くてドライヤーなど使ったら火傷すると叱ったが、比奈はブローの大きな音に怯えることもなく、気持ちよさそうに里奈に頭を撫でられ続けるのだった。

 比奈の髪はサラサラで、いつまでも触っていたくなるほど手触りが良くて、晴れた日は陽光を透かしてまるで黄金の糸だ。

 比奈は、文字通り里奈の宝物だった。

 そんな子育て児童をやっていたものだから、小学校に入学しても、クラスで里奈だけが平仮名の読み書きができなかった。里奈はそこで初めて、「外の世界」を知ったに等しい。

 どうやら世の中には勉強というものがあって、他の同級生たちは家でもそれをやっているらしい。みんな幼稚園というところにも通っていたらしい。里奈と比奈が預けられてきた幸恵の友人の家にも子どもはいたが、たいていがずっと年下だったり年上だったから、気づかなかった。

 同級生たちにとっても、里奈は特異な存在だったに違いない。まず学校に毎日来るわけではない。そもそもどこに住んでいるかわからない。幸恵の知人を頼って方々の家に預けられているわけだから、里奈は同年代の小学生が行ってはいけないはずの「バイパス道路の向こう」にだって毎日のように行き来しているし、比奈を連れて子どもだけでバスにも乗れるという。お使いを頼まれているわけでもお小遣いをもらっているわけでもないのに、大きなお札のお金を学校に持って来ていることもある。

 そうした違和感からか里奈には友達ができなかったし、小さな妹を連れ歩く里奈を見てなぜか声をかけてこないで無視したり、ばかにしたように笑いあっている同級生もいた。自分が「何か他の子とは違う」のはわかっていたけど、やっぱり里奈にはそんなことは一向に気にならない。

「おおごとだがね」

 潮にいだけではなく、周りの大人もみんなそう言ったが、里奈にとって比奈を育てることは全くおおごとではなかった。だって里奈は、誰も持っていないものを持っているのだ。弟や妹がいる子は他所にもいるけど、比奈は里奈が名付け親で、比奈の首が据わる前から面倒を見て来た。幸恵ねえが気まぐれに買ってくれるゲームよりも、どんなテレビ番組よりも、どんなペットなんかよりも、それは特別でとんでもなく凄いことなのだと里奈は思っていた。

 学校が終わると、里奈は走って比奈を預けてある幸恵ねえの友人宅に行き、比奈に軽く食事をさせる。幸恵の昼の仕事先である自動車用品店は、朝の10時から夕方5時までが勤務時間で、里奈はその仕事を終えて帰ってくる伯母を比奈とともに待つ間に比奈と自分の入浴も済ませ、やっぱり念入りに髪の毛をサラサラに乾かしておく。

 幸恵ねえの愛車はサイレンサーが入れ替えられていてボボボボという独特の低い排気音がするので、迎えに来たのはすぐにわかる。いつだってあわただしく現れる幸恵ねえが、昼の女から夜の女になるこの時間が、里奈は好きだ。

 幸恵の自動車用品店での仕事はレジだが、整備のほうが混んでいればオイル交換といった軽作業から、タイヤチェンジャーの操作といった結構な力仕事までこなすから、紺とオレンジ色の作業着はいつも汚れているし足元はつま先に鉄板の入った安全靴だった。

「ほら里奈! あんたも手伝って!」

 勝手知ったる我が家のごとくバタバタと友人宅の玄関を入ってくると、幸恵は重い安全靴を脱ぎ飛ばし、キャスターを鳴らしながら引きずってきたピンクのキャリーケースを上がり框に投げるように置く。作業着を床に脱ぎ捨ててユニットバスのシャワーを浴びに行く幸恵の背中を見ながら、里奈はちょっと誇らしげな気分で、胸がドキドキするのを感じるのだ。

 里奈のお手伝いは、幸恵の脱ぎ捨てた作業着を畳み、安全靴や姉妹の着替えなどを詰め込んだデカいトートバッグと共に、アパートの外に停められた幸恵の愛車のトランクに運び入れること。もちろん比奈が忙しい幸恵にじゃれつかないように相手をしつつの作業だ。そうして鉄階段をカンカン駆け戻ってくる頃には、幸恵は座卓に小さな鏡を出して、半裸に咥え煙草でメイクを始めている。

 里奈の目が輝く。

 広げられた幸恵のキャリーケースは、まるで魔法の箱のようだ。いくつもの色とりどりの化粧瓶や、里奈にはまだ何に使うかわからない化粧道具の数々。昼の仕事でも薄化粧をしている幸恵だが、昼と夜の境目で伯母は一度丹念にメイクを落とす。自動車整備で油染みていた伯母の細く長い指が、流れるようにいくつもの化粧道具を駆使し、その顔を見る間に彩り上げていく。

 まるで大きな花が咲いていくようなその変容に、思わず横に正座して幸恵の手元に見入る里奈だが、幸恵はそんな里奈には目もくれずに立ち上がると、タイトで胸の開いたスカートスーツに着替える。広げたのと同じぐらいの手際よさで化粧道具をキャリーケースにしまい込むと、最後の仕上げは玄関のピンヒールだ。

 里奈はこの、まるで武器のようにとがった不思議な靴に足を通す幸恵ねえを見ると、いつだって誇らしい気分になった。ピンヒールを履いた瞬間、幸恵ねえの脚はモデルのように長く細く美しくなり、なにより里奈には「強く逞しい」脚に感じられるのだ。

 いつだって幸恵ねえは里奈に対してぶっきらぼうだったし、機嫌が悪ければ平手で頰を張られることもあったし蹴られることもあったけど、里奈はやっぱりこんな逞しい幸恵ねえが嫌いじゃなかった。

 寸分の隙もなく身支度を終えた幸恵は、細い腕には意外な力強さで比奈を片手に抱え上げ、空いた片手にキャリーケースを引き下げてガタガタと鉄階段を下りていく。

「里奈、今日は比奈のこと寝かしつけたら、お店のほうにおいで。島尾先生来るってさ」

「はーい」

 幸恵の背中を追いながら間延びした返事をする里奈に、幸恵は苛立った声で振り返る。

「あんたわかってんのかい⁉ 怒りにくるんだべ。あんたこのあいだ、男子ぶって怪我させたってゆうじゃねえかい」

「殴ってねえ。おっぺしただけさね。それに怪我じゃなくて擦りむいただけだっちゅ~の」

「だっちゅ~のじゃねえっちゅーの」

「そうだっちゅーの」

 苛立った幸恵の言葉も、どこまでもめげないマイペースな里奈にかかると、徐々に親子漫才のようになってしまう。

 ふたりのやり取りに出てきた島尾先生とは、小学生になった里奈の初めての担任の先生だ。入学後、里奈が平仮名の読み書きを覚えていないことに気づくと、頻繁に幸恵の勤めるパブスナックに飲みに来て、里奈に平仮名の書き取りを教えてくれた。

 島尾先生のほかにも、店の客の中には里奈と比奈が幸恵の仕事終わりを待つ倉庫にやってきて、酒臭い息で里奈に掛け算を教えてくれるおじさんなどもいた。こうして里奈は、クラスで誰よりも早く掛け算九九の暗唱ができるようになったというわけだ。

<第5回に続く>