閉塞感のある田舎に生まれたことが苦しかった。そんなふるさとと向き合うために、私がすべきこと【読書日記15冊目】

文芸・カルチャー

2020/1/14

2019年9月某日

 幾重にもなる寂しさを纏って、私はとかち帯広空港から東京へ向けて飛び立った。

 そのときは、映画『沈没家族』の自主上映会後のアフタートークに加納土監督と一緒に登壇するために帰省していた。主催は母だった。自主上映会は大成功で、北海道中から320人ちかくの人が集まり、借りていたホールはほぼ満席。上映会後の加納監督と母と私という不思議な組み合わせで行った打ち上げは大いに盛り上がって、確か夜中の2時過ぎまで飲んでいた。

 数年前まで抱いていた母へのわだかまりはすっかり解けていた。母の仕事ぶりは贔屓目ぬきに素晴らしく、母というよりは一個人として出会い直せたような気がしたのもうれしかった。きっと、死ぬ直前の走馬灯の一コマを飾るだろうなと思うほど。

 しかし、そんなに素晴らしい夜を経ても、3日もふるさとで過ごせば、足首あたりにだんだんと泥濘(ぬかるみ)を感じるようになる。過去のかなしい記憶が足から膝へ、気づけば喉元まで迫ってくる。そのときも2泊3日で東京に戻った。私は、自分の生まれ育ったふるさとが、肌に合わない。

 私の地元である北海道の十勝地方出身者には、自分の出身地をこよなく愛している人が多い。食べ物も安くておいしいし、夏も冬も焦げるほどの晴れ間が差して、見渡す限りの平野が広がり、土地に馴染めば人も親切にしてくれる。

 それなのに、私はふるさとがどうしても肌に合わない。嫌いなわけではない。ただ、中高で受けたいじめや、クラスメイトやその親が言った噂や悪口が自分の耳に音速で反響する小さな世界に生きていたときのことを思い返すと、どうしてもその土地の一員になることやそこに長居する気にはなれないのだった。まだ折り合いがつかない、と言ってもいいかもしれない。とかく私はふるさとと和解できておらず、和解できない自分を咎め、同時に寂しさを感じていた。大好きなのにわだかまっている、いつかの母への感情にも似ていた。

 9月の帰省から1カ月ほど経った頃、Twitterのタイムラインでよく見かける本があった。きれいなミントブルーの表紙に、切り抜いたような「富山駅」と書かれた駅の看板が写った写真が見える。おすすめしている人は私の好きな人たちばかりだったし、装丁が可愛くて欲しいなと思ったけれど、タイトルを見て一瞬躊躇した。

 そこには「どこにでもあるどこかになる前に。」とあった――。

 ローカル特有のノスタルジーむんむんな本だったら嫌だなと思った。私は田舎から東京に出てきている人間なので、地元の商店が大資本スーパーに潰される寂しさは知っている。一方で、地元から“追い出された”人間だと自負しているので、地方発、対東京への悪口一辺倒のような論調も大嫌いだ。だから、すぐには購入せずにいた。

 しかし、来る日も来る日も私のタイムラインで絶賛され、書店に行けば必ずと言っていいほど目に留まる位置に平積みされているその本が気になって仕方ない。その気がなかったのに好きと言われ続けているうちに好きな気がしてきてしまう恋愛のようだ。あまりに頭から離れないので、ある日「降参です」とばかりに下北沢の本屋B&Bで、その本を購入したのだった。そして、購入した当日の夜、1ページ目をめくったが最後、終わりまで息つく暇がないほど夢中になって読んでしまった。あらゆる心配は杞憂だった。それはローカル賞賛でも、ノスタルジーひたひたでもない、今まで見たことのない「第2のローカル青春記」だったからだ。

『どこにでもあるどこかになる前に。~富山見聞逡巡記~』(里山社)は、著者である藤井聡子さんが故郷である富山にUターンするところから始まる。2000年代半ばから東京で雑誌の編集に携わっていた藤井さんの半生をなぞりながら富山についての回想や風景について語られるところまではいい。しかし、読み進めるうちに異変に気づく。藤井さん自身や藤井さんのご両親をはじめとした登場人物がチャーミングすぎるのだ。キャラが立ちすぎている。プロローグに登場した人物の描写だけで、ズズっと中に引き込まれてしまう。

 購入すなわち“交際”のはじまりが運の尽き。その後も、「2010年時点で御年80歳になる、フライドチキンが大好きなビリヤード屋店主の田鶴子」や「いつでも街中にいて下世話な噂話をタレこむ“ろくでもなさ”と、あらゆるイベントの設営に律儀に取り組む生真面目さを兼ね備えた男・島倉」など、登場する人物すべてに惚れさせられる。縁もゆかりもない私にとっては未踏の地・富山ごと好きになってしまう。そこに、本書の魅力があると私は思う。

 私が読む前に心配していた、“内向きで手放しのローカル礼賛”のようなものへの違和感は、東京から帰ってきたばかりの藤井さんも持っていたようだった。同時に、その土地で生まれ育った者として、再開発で富山のシンボルたちが失われてしまうことへの寂しさも抱えていた。そのうえで、ライターとして地元の魅力を伝えようと奔走するも、藤井さんのやり方は地元の人からは受け入れられない。完全な“よそもの”でもなければ、もはや“地の人”でもない。

 どこにも属せぬ藤井さんはいろいろな人に出会う中で、富山の魅力を「人」に見出していく。この本に登場する人物たちが魅力的なのは、その人たちの“素材”が良いことはもちろんだけれど、藤井さん自身が惚れ込んでいることがとことん伝わってくるからだ。土地や店の魅力に終始せず、葛藤する藤井さんの視点から魅力的な人たちとの出会いが語られるこの本はコミカルで、ときどき泣けて、富山を舞台にした「第2の青春記」と表現するのが個人的にはしっくりくる。

 行ったことのない土地に関して良さをどんなに伝えられても、正直なところあまりピンとこない。どの国の首都も、どこの地方都市も、どこの地方の郊外も、規模や気候、地形が似ていればどうしても似通ってきてしまうところはある。だからこそ、“どこにもないここだけの風景”をなしているのはその土地の人なのだと、この本はひとつの解を示してくれているようだと感じた。

 また、本旨には関係ないようだけれど、「地方における女性」も、この本に挟まれた大事なテーマだと感じた。自ら薬局を立ち上げ、工場の経営に不向きな父に代わって一家の大黒柱として務めを果たした藤井さんの母の話、いわゆる“結婚適齢期”になっても独身でいることに対する周囲からのまなざし、藤井さんがペンネームとして「ピストン藤井」という、男性とも女性ともつかない名前を使っていたこと。こうした一つひとつの小さな描写に、同じ地方出身の女性として、グラスウールを握ったときのようにチクチクと痛んだ。

 ローカルの魅力を紹介している本なのに、ひとりの女性の半生を綴った物語のようでもあり、「第2の青春記」でもあり、フェミニズム要素も含まれている。この本は一体なんなんだろう、私は何を読まされているんだろうと思いながら夢中でページをめくった。

 私の事情と、藤井さんの事情はだいぶ違う。けれど、藤井さんが好きも嫌いもないまぜにしながら、ふるさとと折り合いをつけていく過程を見せてくれたことは、私の中に羅針盤をひとつ増やした。地方発・対東京への大きなフレームよりももっと個人的で、小さくて、繊細にふるさとと向き合う方法もあるのかもしれないと思えた。

 読み終わって、ふるさとである十勝に帰りたくなった。

 そして、ふるさとでもなんでもない、富山を訪れたくなった。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka