新人キャリア官僚が、なぜか窓口業務に奔走?/『香港シェヘラザード 上・蕾の義』①

文芸・カルチャー

2020/3/29

香港に赴任中の新人外交官の秋穂のもとに舞い込んだ、女性の拉致誘拐事件。事件を追う秋穂は、香港の黒道の男に手を引けと脅されるが――!? 正道の女と外道の男、それぞれの「正義」が交錯するラブ・サスペンス。

『香港シェヘラザード 上・蕾の義』(三角くるみ/KADOKAWA)

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 甲高いクラクションの音が不意に耳に飛びこんできたような気がした。そんな莫迦な、と水城秋穂は思う。ここは高層ビルの上層階、厚いガラス窓と頑丈な壁に守られた在香港日本国総領事館の執務フロアだ。

 パソコンモニタに向けていた顔を上げて左右を見回せば、涼やかな声に名を呼ばれた。

「水城さん、時間なんで、お願いできますか?」

 画面の隅の時計表示に目をやってから、はあい、と間延びした返事をする。なるほど、仕事に没頭していた意識を引きずり上げたのは、クラクションではなく事務官の声だったのか、と思いながら、彼女は思いきり大きく腕を伸ばした。

 ひとつにまとめた長い髪を揺らしつつ首を反らし、肩を回し、腰をひねる。長時間のデスクワークに凝った身体をほぐすことで昼どきの空腹を忘れようとしているところで、隣の席から向けられる同僚の視線に気がついた。

「なんですか、市瀬さん」

 市瀬朗は秋穂よりも六期ほど歳上の、それでも総領事館内では一番年次の近い先輩である。比較的小柄な身体つきをしているうえにいつも眠たそうな目許が特徴的な彼は、そののどかでおとなしそうな印象に反して仕事は速く的確だ。上司からの信頼も篤い。

「べつに。ただ、おまえも大変だなと思って」

「大変?」

「窓口、わざわざ代わってやることもないのに」

 同情に似せた苦言に、秋穂は口許でへの字を描き、いいんですよ、と応じた。まっすぐに切りそろえられた前髪の下、黒目がちの大きな瞳が細く眇められる。

「下っ端には下っ端の身の処し方ってものがあるんです」

「……下っ端って、おまえ、上級職だろうが」

「そんなこと、ここでは関係ないですよ。市瀬さんだってそうじゃないですか。わたしの階級なんか普段気にしてないですよね」

「ちゃんとするときはちゃんとするさ、オレは」

 秋穂はさらに唇を曲げただけで返事はしなかった。靴を履き替えるのに一生懸命になっているふりをして身体を屈め、首だけを上げて窓の外を見遣る。白っぽく霞んだ空に自身の心情を重ね、小さなため息をついた。

 香港に赴任してきてからじきに半年が経つ。仕事に追われるうちに年を越え、季節は真冬を迎えている。

 国家公務員試験に合格後、希望どおり外務省へ入省し、アジア局へ配属された秋穂である。一年間の本省勤務、その後約二年間の国内地方局勤務を経たのち、初の海外赴任を命じられた。入省からまもなく四年、二十六歳での総領事館勤務は、同期のなかでも比較的早いほうだといえる。

 一般的なキャリア官僚として十分な上昇志向を持ち合わせている彼女は、就職したそのときから海外での勤務を待ち望んでいた。それゆえに香港への辞令は心を浮き立たせた。実際に着任する、そのときまでは。

 在香港日本国総領事館へ三等書記官として意気揚々と赴任してきた秋穂に与えられた仕事は、参事官の秘書代わりのほか、国際交流をより円滑にするためのパーティやイベントの企画、貿易交渉の基礎となる各種の調査、本国から折に触れ訪れる要人の接待など、この三年と何か月かのあいだにすでに慣れた感のあるものばかりだった。

 おまけに事務官の休憩時間中には、査証発給をはじめとする窓口業務にまで駆り出される。着任当日、館内の諸事について案内してくれた事務官からそういうものだと説明されれば、断ろうなどと思うはずもない。たとえあとから、これは書記官の仕事ではない、と気づいても、彼女たちを敵に回すような真似はできず、いまだに断りきれていない。外交官といえどもまだ実務経験の浅い新人である秋穂は、職場の人間関係のしがらみから自由ではいられないのだ。

 総領事館の仕事にいったいなにを期待していたのか、と訊かれるとはっきり答えられるわけではないが、なんとなくおもしろくない、というのが正直なところだ。ため息のひとつやふたつ、こぼしたくなるというものである。

「水城」

 市瀬に呼ばれ、秋穂は慌てて身体を起こした。執務フロア内でのみ着用すると決めているスニーカーからパンプスへと履き替えたまま、ぼんやりしていた。

「あのさ、本当に困ってるなら、オレが話してやってもいいんだぞ」

「困る? 話してやるって、何をですか?」

「だから、窓口だよ」

 市瀬の意図が読めず、秋穂は目を瞬かせる。

「下っ端のおまえが言いづらいなら、オレが話してやろうかって言ってんだよ」

 そんなに察しが悪くてよくキャリア官僚が務まるな、と市瀬の目が言っている。秋穂はいったんは彼から逸らした視線をふたたび戻す。

「……鴻上さんがなにかおっしゃってましたか?」

 市瀬がここまで言うからにはなにか裏があるに違いないと、直属の上司の名を挙げると、案の定、彼は、まあな、と言葉を濁しながら頷いた。秋穂は、やっぱりそうでしたか、と肩を落とす。

「大丈夫です。自分で言います」

「無理するなよ」

 市瀬が笑いながら言うので、秋穂もまた笑ってみせる。

「ほんとに大丈夫です。彼女たちはわたしの立場のことなんて意識していなかったんだと思いますよ。あとになって、その仕事やっぱりやらなくていいです、っていうのも、それはそれで言い出しにくいものだとも思いますし」

 言われるままに引き受けてしまった業務を、本来の役割ではないと知ってなおズルズルと続けてきたのは秋穂の失態だ。どれだけ言いにくい雰囲気であっても、きちんと断るべきだったのだ。組織のなかで生きるなら、己の領分は己で守らなくてはならない。

「……でも、嫌いじゃなかったんですけどね、窓口業務」

「マジか、おまえ」

 文句ばっかりだったじゃないか、と市瀬は肩をすくめた。

「毎日毎日、旅券を失くしただの、ぼったくりに遭っただの、喧嘩に巻きこまれただの、よく言いますよねってさ」

「……まあ、それはそうなんですけど」

 秋穂は苦笑いした。市瀬に向かい、総領事館の窓口を訪れる人々について愚痴をこぼしたことがあるのは事実だ。わたしの任務は邦人の生命、身体、財産の保護だけど、そもそもの前提として、ここは安全大国日本じゃないんですよ。笑顔で近寄ってくるやつは詐欺師か泥棒、日本語で話しかけてくるやつは人殺しも厭わない極悪人だと思ったほうがいい。ちょっとばかり親切な人に出会ったなら掏摸犯どころか誘拐犯だと思え、と。

「でも、ずっと書類に向き合ってるんじゃ、国内にいるのと変わらないじゃないですか」

「おまえこそいつまでも観光気分でいるんじゃないよ」

 厳しい言葉が胸に刺さる。実際のところ、香港に来てから観光らしい観光などしたことがなかったので、余計に辛辣に聞こえたのかもしれない。そんな秋穂に今度は市瀬のほうが苦笑いを向けた。

「気持ちはわからなくもないけどな。おまえ、現場好きそうだもんな」

 我が意を得たりとばかりに顔を上げた秋穂に、しかし市瀬は真面目な口調で続ける。

「でも、おまえは自分の立場を忘れちゃまずいだろ。仮にもキャリアである水城が窓口に立つとなるとさ、ノンキャリのオレたちは同じことをしなくていいのかって話にもなる。仕事を押しつけてる事務官の評価にも響いてくる。キャリアっていう立場はさ、おまえひとりだけのものじゃないんだよ」

 はい、と秋穂は神妙に返事をしながら、市瀬さんは親切だな、と思った。

 新人外交官である秋穂がどんな下手を打とうが、市瀬にはまるで関係がない。彼は一般職で、秋穂とは職種が違う。同じ組織に所属しているとはいえ、キャリアとノンキャリアではその期待されている職務も省内における役割もまったく別物なのである。

 秋穂の立場がどれだけまずくなろうとも、自分にはどうでもいいことと放っておいたってだれも市瀬を責めたりしないだろうに、彼はこうして忠告をくれるのだ。口うるさいとか、嫌みったらしいとか、そんなふうに曲解されて関係をこじらせるかもしれないのに。

 そうすることが、秋穂に一番年次の近い先輩としての市瀬の役割だといえばそれまでなのかもしれないし、結局は彼自身の立場を守るためであるのかもしれないが、言いにくいことをはっきり口にしてくれるのは、親切な気質ゆえに違いない。

 でも、だからといってここでうっかり、ありがとうございます、とか言おうものなら、きっと皮肉っぽく笑われて終わるんだろうな、と秋穂はおとなしく頷くにとどめておいた。

「水城さん」

 もう何度目になるか、事務官の声が呼んでいる。今度こそ立ち上がって、すぐに行きます、と答えながら、秋穂は市瀬に小さく頭を下げた。目線だけで、行ってこい、と応じた先輩は、彼女が席を離れる頃にはもうすっかり自分の仕事に戻っていた。

<第2回に続く>

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