誘拐犯から届いた手紙…その驚きの宛名とは?/『香港シェヘラザード 上・蕾の義』③

文芸・カルチャー

2020/3/31

香港に赴任中の新人外交官の秋穂のもとに舞い込んだ、女性の拉致誘拐事件。事件を追う秋穂は、香港の黒道の男に手を引けと脅されるが――!? 正道の女と外道の男、それぞれの「正義」が交錯するラブ・サスペンス。

『香港シェヘラザード 上・蕾の義』(三角くるみ/KADOKAWA)

「いなかった?」

 自分が同じ言葉ばかりを繰り返す鸚鵡にでもなったようだと思いつつも、秋穂は問わずにいられなかった。

「容姿の特徴をフロントで伝えて呼び出してもらおうとしましたが、そんな従業員に覚えはない、と言われました。そこではじめて、これは異常な事態なんだと気がついた」

 秋穂は自分の顔からすうっと血の気が失せたのがわかった。笹森の話がすべて事実だと仮定し、彼の妻が己の意志で失踪したのではないとすれば、と彼女は考えた。これは何者かによる拉致事件だ。しかも、かなり手際がよい。よすぎるくらいだ。通りすがりのだれかによる犯行であるとは思えない。笹森にとって不幸なことに、この件にはとても厄介な連中がかかわっているのではないだろうか。

 失礼ですが、と秋穂は慎重に口を開いた。

「奥様がご自分の意志でいなくなられた、という可能性は……」

 笹森は鋭く息を吐いた。変なことを訊いてごめんなさい、と咄嗟に謝りたくなるのを堪え、秋穂は彼の返事を待った。

「……そんなことは考えたくない」

 そんな可能性は絶対にない、と断言しないところに、笹森道哉という男性の誠実さが見えるような気がした。秋穂はそれ以上を追及する気にはなれなかった。

「警察には届けたのですか?」

 もちろんすぐに届けました、と笹森は答えた。

「その夜はとりあえず帰宅し、一睡もしないで妻の帰りを待ちました。携帯電話は途中で呼出音すら鳴らなくなった。警察に行ったのは翌日の朝です」

 詳細な事情聴取こそ受けたものの、まともに相手をしてくれている気がしなかった、と笹森は憤慨した様子で言った。

 そういうこともあるかもしれない、と秋穂は思う。

 香港在住邦人は推定約二万五千人、通年の旅行者数は約百三十万人ともいわれる。そのなかでトラブルに遭遇する者がどれだけいるのだろう。掏摸に強盗、詐欺にひったくり、稀ではあるが強姦に殺人まで、邦人が巻きこまれる犯罪はじつに幅広い。総領事館では、凶悪犯罪については、発生を把握しだい警察当局に対して正式な捜査要請を行うものの、軽微犯罪については、被害を届け出た者に対して被害救済のための当座の手段を伝えるだけで精一杯の状態である。

 情けない限りだ、と秋穂は内心でため息をつかずにはいられない。

 とはいえ、いま聞いた笹森の妻のケースは拉致誘拐事件に該当する可能性が高い。ここはやはり参事官経由できちんとした捜査を要請するべきだろう。

「お話はわかりました。香港警務署に対してすぐに正式な捜査を依頼します。手続がありますので、のちほどご案内します」

 笹森の表情が険しくなったが、それにかまわず秋穂は続けた。

「その前に、ひとつ確認させていただきたいことがあるのですが」

 含みを感じさせるような言葉に笹森は顔つきを変え、どこか不安げな様子になって視線を彷徨わせた。だが、秋穂はそのことに気づかない。

「奥様がいなくなられたのが五日前ということですが、そのときすぐにではなく、いまになってこちらへいらしたのはなぜですか?」

 なにか理由があるのですか、という問いかけに、笹森はこれまでとは異なり、すぐには答えなかった。

 秋穂は首を傾げたくなる。おかしなことを尋ねたつもりはない。妻がいなくなった理由に心あたりがなく、事件性を確信したのならば、おまけに警察にもろくに相手にしてもらえなかったと感じたのならば、すぐにでも総領事館に駆けこんでくるはずだ。連れ去られた人間の命が時間の経過とともに擦り減っていくことはよく知られた事実であろう。

 もしかして、と秋穂は思いついたことをそのまま口にした。

「犯人から直接連絡があったのではありませんか?」

 その指摘に、笹森の青白い頬が引きつった。

「捜すな、と言われたのでは?」

 笹森は目を伏せる。眉間に皺を寄せ、痛みに耐えているような表情だ。

「相手は?」

 次々と畳み掛けるような秋穂の言葉を、すみません、と笹森はなかば悲鳴のような声で遮った。わたしに謝ってどうする、と秋穂は困惑気味の眼差しを笹森に向ける。その視線にさえ重ねて問い詰められたように感じたのだろうか、彼はすっかり俯いてしまった。

 しまった、言いすぎた、と秋穂は自分の失敗にようやく気づく。拉致された可能性の高い女性の身を思うと、苛立ちや焦りをも含むいたたまれないような気持ちにはさせられるが、わたしは笹森さんを責める立場にはない。

「すみません……」

 謝罪にならない詫びの言葉を口にする秋穂に対し、すみません、本当にすみません、と笹森も繰り返す。細く震える、力のない声だった。

「なにがあったんですか?」

「妻がいなくなった翌日、会社あてに小切手が届きました。受取人は私です」

 その日、笹森は予定外の休暇を取っていた。人数は少ないながらも妻が親しくしていた相手に連絡をしたり、心あたりのある場所を捜したり、警察に行ったりするためである。そうこうしているところへ同僚が電話を寄越し、書留郵便が届いていると知らせてきた。夕方になってその同僚がこれといって特徴のないごくありふれた封筒を届けてくれた。中身は額面一千万香港ドルの小切手と一葉の写真。メッセージはひとことたりとも添えられていなかったものの、すべてを悟るには十分すぎるものだった。

 小切手の振出人は四河有限公司。香港で最も力を持っているといわれる黒道、七海幇のフロント企業の名である。

<第4回に続く>

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