相手は香港マフィアの“黒道”! 新人官僚はどう対抗する…!?/『香港シェヘラザード 上・蕾の義』④

文芸・カルチャー

公開日:2020/4/1

香港に赴任中の新人外交官の秋穂のもとに舞い込んだ、女性の拉致誘拐事件。事件を追う秋穂は、香港の黒道の男に手を引けと脅されるが――!? 正道の女と外道の男、それぞれの「正義」が交錯するラブ・サスペンス。

『香港シェヘラザード 上・蕾の義』(三角くるみ/KADOKAWA)

 やはり黒道か、と秋穂は組んだ指先に力を入れた。

 外国人、とくに駐在員や留学生など長く逗留する者から犯罪被害届が提出された場合、捜査当局は大使館や総領事館にその旨を知らせてくることが通常である。犯罪捜査は多くのケースで長時間にわたる身柄の拘束や証拠の保全などを伴う。外国人の身体や財産に多大な制限がかかる可能性があるため、大使館などの協力が不可欠なのだ。

 総領事館は、笹森の妻の一件について現時点でまだなにも把握していなかった。単純な連絡ミスであるとしても、正式な抗議に値する事態である。とはいえ、警察当局が好きこのんで外交問題を引き起こすとは考えにくい。

 でも、黒道がかかわっているとなれば話は変わってくる、と秋穂は考えた。連中ならば警察内部から圧力をかけて、こちらへ話が伝わらないようにすることなど容易いはずだ。これは突発的な誘拐事件ではないのかもしれない。笹森蓮子はどこかであらかじめ目をつけられ、隙を狙われていたのではないだろうか。

 笹森に声をかけてきたというベルスタッフが七海幇の息のかかった者だったことは疑いようもない。さらに言えば、事件発生当夜、ホテルの車寄せに一台のタクシーもいなかったことも、あるいは犯人らの細工である可能性もある。笹森と妻を引き離した手際といい、その後の彼女の消息がいっさい知れないことといい、いかにも黒道の仕業らしい周到さだ。

「小切手の件は警察には?」

 笹森は首を振った。写真の妻は、と笹森は言葉を濁した。

「衣服をいっさい身につけていなかった。裏に、その、き、金額が書かれていて……」

「もう結構です」

 秋穂は笹森の言葉を遮った。あまりにも痛ましい彼の様子を見ていられなかったからだ。写真の送り主は、笹森の妻を一億円で買ったと伝えたかったのだろう。警察に届ければ彼女の命はないと、それは言葉なき、しかしあからさまな脅迫にほかならない。

「上司も同情はしてくれるものの、対応となると具体的にはなにも……」

 無理もありません、と秋穂は頷いた。

「黒道との揉めごとを避けたいと考えるのはごくあたりまえのことです」

 黒道と呼ばれる香港マフィアは、この街のありとあらゆるところに闇に染まったその腕を伸ばしている。十数年前の本国への返還以降、当局の取締りは厳しさを増し、その効果も少しずつ現れはじめてはいるが、それでも彼らの指先にいっさい触れることなくこの街で暮らしていくことは、現状、ほぼ不可能だとさえいえる。

 警察をはじめとする行政機関にも、それぞれの業界を代表するような大手企業にも、必ずといっていいほど彼の筋の者が紛れこんでいる。司法関係者でさえも完全に買収を免れることはできないし、政治もその意向を簡単に無視することはできない。当然、外国人への影響も少なくはない。自国民が黒道による犯罪に巻きこまれることも多いため、各国の外交官といえども彼らについてまったくの無知ではいられないというのが実情である。

 こうした背景のもと、外国企業が黒道と揉めることは有形無形の大きな損害を被る可能性が否定できない。事情がはっきりしないうちは迂闊に動くことができないという判断はごくまっとうなものだといえた。

「あなたも当然ご存じでしょうが、警察は黒道と通じているという噂もあります。それが本当かどうかはわからないですが、もしそうだったらと考えると、彼らに事情を知られるのはあまりにもおそろしいと思いました。私のことだって絶対見張っているに違いないとも思ったし、その……」

 言葉を続けられず、笹森は唇を噛んでまた俯いた。

 笹森さんが怖がるのも当然のことだ、と秋穂は思う。暴力を生業とする反社会的な集団に家族を拉致され、これみよがしに口止め料として大金を送りつけられた一般市民に、怯えるな、と求めるのは酷に過ぎるだろう。香港に暮らす者ならだれもが名を知る七海幇、そのフロント企業として有名な四河の名を使って小切手を用意したのは、手っ取り早く被害者の夫を黙らせるためであったとしか思えない。

「でも、妻の身を思うと、このままにしておくなんてどうしてもできない」

 笹森の肩が大きく震える。

「いろいろ考えましたが、やはり総領事館しかないだろうと……」

 こっちの警察はあてにならない、やつらに頼るのは厭です、と吐き捨てるように言い、笹森は震える手でジャケットのポケットから写真を取り出した。

「私がここへ来ようと思ったきっかけです」

「どういうことです?」

 みずから思い直したのではないのか、と秋穂は首を傾げた。

「今朝になって会社にこれが届きました。つい先ほど同僚が持ってきてくれたものです。最初に届いたのと同じ封筒でしたが、今度の中身は写真だけだった」

 拝見します、と秋穂は写真を手に取った。

 悪天候の夜間に望遠レンズで撮影したのか、写りはあまりよくない。はっきりと判別できるのはひとりの男の横顔のみである。長い髪の流れる広い背中がぼやっとした光のなかに浮かび上がっている様子から、これからどこかの建物に入ろうとしているように推測できる。彼のそばにはほかにも数名の男たちがいるようで、おそらくは全員が黒道の構成員――七海幇の関係者――であるのだろうが、個人を識別できそうな者はひとりもいなかった。車も一台写っているが、車種もナンバーも秋穂の目には判然としない。

「その男に抱えられているのが……妻かもしれないんです」

 言われて秋穂はもう一度写真を見つめた。あらためてよく見直してみれば、たしかに長髪の男にだれかが抱きかかえられている。仰け反ってあらわになった額に建物から零れる灯りがあたっている。不自然に力の抜けた様子からその人物は意識がないように思えた。むろん顔立ちは見てとれないが、夫が自分の妻かもしれないと言うのを否定することは、秋穂にはできない。

 笹森は黙ったままだ。秋穂はごく短いあいだ考えをめぐらせる。

 最初の写真と小切手を送ってきたのは誘拐犯で間違いないだろう。

 それでは、この二通めの写真はだれが送ってきたのか。これを撮ることができる人物は非常に限られている。誘拐の事実を知り、なおかつその現場を押さえることができる者。誘拐犯の身近にいる人物、十中八九、組織内のだれかであるに違いない。

 だが、その者がなぜこんな真似をしたのか、その理由については皆目見当がつかない。黒道組織の結束の固さは堅気の者の比ではないはずなのだ。この写真を笹森の手に渡すことは、組織に対する不利益行為とみなされてもおかしくない。あるいはなにか別の目的があるのだろうか――。

 いずれにしてもわたしたちだけで追える相手ではない、と秋穂は唇を引き結んだ。

 香港最大の勢力を誇る黒道、七海幇の名を知らない者はこの街にはいない。もちろん総領事館でも、連中の存在と影響力についてはある程度把握している。そうでなければこの街で邦人の安全を確保することは難しい。

 その七海幇が相手となると話はだいぶややこしくなる。直接捜査に携わる者のなかにさえやつらに通じている者が大勢いると言われており、信用できる相手はごく限られてくるからだ。

 外国人である自分たちだけでは連中に対抗などできるはずもない、ということは秋穂にもわかる。どうしたって香港警務署の手を借りないわけにはいかない。

「先ほども申し上げましたとおり、警察に協力を要請しましょう」

 秋穂が言うと、笹森は顔を上げて今度こそはっきりとかぶりを振った。

 お気持ちはお察ししますが、と秋穂は眉根を寄せて首を横に振った。片手を挙げ、いまにも反論を口にしそうな笹森を制する。

「残念ながら、ことは総領事館だけで対処できる範囲を超えていると言わざるをえません。ご存じでしょうが、わたしたちにこの国における捜査権はない。もちろんごく内密に要請することをお約束します。上司を通して正式な手続はとりますが、情報が漏れることのないよう細心の注意を払います」

 笹森は頷かない。警戒しているのだ、と秋穂は思う。無理もない。話す相手を間違えれば、妻はおろか笹森自身の命も危険に晒される。駐在員である彼はこの街の事情に、あるいはわたし以上に詳しいのだろう。

「香港警務署保安部外事科の日本担当者とはわたしもつきあいがあります。悪い噂も聞きません。必要であれば直接お会いできるよう取り計らいます。彼の人となりを見て、それからお話しするかどうか決めてくださってもかまいません」

 お願いします、と秋穂は言った。必死だった。

「単身、黒道に向かい合うほど愚かしいことはない。わたしはそう思います」

 最後だけあえて強い口調で言って、秋穂は笹森を見つめた。彼はかさついた唇を幾度か開けたり閉めたりしていたが、やがて震える口調で、わかりました、と答えた。

 秋穂は強く頷き、上司が席にいてくれるよう祈りながら内線電話をかける。

 だが、呼び出そうとした鴻上篤人はあいにくと不在だった。対応してくれる秘書役の事務官に、いつ戻るか、と尋ねても、はっきりした時間はわからない、と躱される。秋穂は焦り、しかしどうすることもできずに受話器を置いた。

 目の前には必死の形相の笹森がいて、強い眼差しでこちらを見据えてくる。いますぐどうにかしてくれ、と机を叩き大声で叫び出しそうな彼を前にして、秋穂はふたたび強く唇を噛みしめた。

<第5回に続く>