「私も同罪…」微笑をたたえた男から手渡されたのは/『香港シェヘラザード 上・蕾の義』⑦

文芸・カルチャー

2020/4/4

香港に赴任中の新人外交官の秋穂のもとに舞い込んだ、女性の拉致誘拐事件。事件を追う秋穂は、香港の黒道の男に手を引けと脅されるが――!? 正道の女と外道の男、それぞれの「正義」が交錯するラブ・サスペンス。

『香港シェヘラザード 上・蕾の義』(三角くるみ/KADOKAWA)

 床に置いた鞄から栄養点滴のバッグを取り出す。手早く準備を調えながら、この男はどこのだれなんだろう、とまた考えた。

 この屋敷に足を踏み入れるまで、梨玲は自分を利用する黒道を李海藍個人としてしか認識していなかった。どこか大きな組織に繋がっているのだろうと想像してはいても、その正体を確信したことはまだなかったのだ。その必要もないと思っていたが、これからはそうもいかないのかもしれない。

 寝台の天蓋を支える梁に伸縮可能なフックを使って点滴バッグを括りつけ、女性の腕を取った。灯りが弱く、うまく血管を見つけられない。鞄から取り出してあった懐中電灯を口にくわえて、ゴム管を細い腕に巻きつける。血管を浮き立たせ、針を刺す。金属針を抜き取って、血管のなかに樹脂管だけが残ったことを確認してから点滴の速度を調整した。

「もういいのか」

 焦れたような男の声がした。数えきれないほど繰り返して、目を瞑ったままでもできると思えるほどに慣れた作業だったが、いまこのときばかりはもっと時間をかけてやればよかったかもしれない、と梨玲は思った。

 男を振り返るも、その表情を窺うことはできなかった。一瞬とはいえ煌々とした灯りを見たせいで、目が暗闇を拒否している。それでも、男の冷たい声に燃え滾るような情欲が満ちていることはわかった。

「……点滴が落ちるまで待てないの」

 梨玲はせめてもの抵抗を口にしながら首を横に振った。あたしに彼女を救うことはできない。ほんの一時の休息を与えることさえ、至難の業だ。

「腕に針が刺さってるのよ」

 大袈裟な言葉で咎めてみたものの、男は梨玲の言うことなど聞いてはいないようだ。女性の身体にかけられていたやわらかな上掛けを乱暴な仕草で剥ぎ取る。薄い唇には醜い笑みが浮かび、しなやかそうな指先は堪え性なく彼女の肌を乱暴にたどっている。

 梨玲は無駄と知りつつ最後の抵抗を試みた。

「そのままじゃ死んでもおかしくないと言ったはずだけど」

 うるさい、とでも言いたげに、男は顔を上げた。どんなぬくもりも光もすべて呑みこむかのような虚ろな眼差しに、梨玲は身をすくませる。

「……そう、殺したいのね」

 まったくもって無駄なひとことを付け加えて、梨玲は鞄をつかんだ。こんなところにはもう一瞬たりともとどまりたくなかった。

 背後から忍び寄る淫猥な気配に耳を塞ぎたい思いで足早に扉に近づき、わずかに開けた隙間から逃げるように次の間へと身を滑りこませた。怯えた表情をした使用人の少女と目が合う。あたしはきっと彼女と同じ顔をしている、と梨玲は思う。

 目を閉じて深い呼吸を繰り返す。肺の奥に腐臭が染みついた気がした。それでも、身体に走る震えは、怯えからくるものだけではなかった。

 梨玲のなかにたしかに息づく憤り。女性をこれ以上ないほど残酷に扱い、痛めつけて弱らせて、なおもまだ蹂躙しようとする男。許せない。あの男のああした振る舞いを許す者たちがいることにも、激しい怒りを禁じえない。人を、女性を、いったいなんだと思っているのだ。

 とはいえ、梨玲のなかには冷静なもうひとりの自分がいる。彼女を救えずに逃げ出してきたあんただって同罪よ、とまったくの正論で痛いところを責め立ててくる。

「手当ては終わりましたか」

 次の間でずっと控えていたのだろう、先ほど梨玲を奥の部屋に押しこんだ男が言った。彼は美しい面差しを裏切らない繊細そうな長い指で、ぶ厚い封筒を差し出してきた。

 梨玲は眉をひそめた。

「お疲れでしょう。今夜は冷える。温かいお食事でもなさってお帰りください」

 いったいこれはなに、と梨玲は戸惑った。海藍から仕事を押しつけられることは珍しくもないが、それに対する報酬を受け取ったことなど一度もない。

 落ち着きのない視線で、男の顔とその手にある封筒とを何度も見比べる。やわらかく深い声に丁寧な言葉。絶えることのない微笑。にもかかわらず、扉の向こうで哀れな女性を貪る残酷な男よりもずっとおそろしいなにかが彼のなかに息づいているような気がして、梨玲は怯える。

「心配なさらなくとも、総領にはあなたの助言に従うよう、私からもよく申し上げておきます。あなたにいつまでもここにいられては、私が叱られるのです。今夜のところはどうぞお帰りください」

 叱られる、という言葉がこれほど似合わない男も珍しい、と梨玲は思った。どちらかといえば扉の向こうの変態サド野郎のほうがよほど叱られ慣れていそうだ。

 男は薄い笑みを浮かべてなおも封筒を差し出してくる。粗暴な仕草などひとつも見せないのに、彼の気配はずいぶんと暴力的だった。勢いに任せればさっきの男にはものも言えるが、こいつには無理だわ、と梨玲は悟る。

 結局、質問ひとつできないまま報酬に手を伸ばすしかできなかった。

 梨玲が封筒を受け取ったことを合図にしたかのように少女が顔を上げた。廊下に続く扉を開け、出迎えに現れたときと同じように縋るような眼差しを寄越す。梨玲は強張った身体を叱咤して、どうにか歩き出した。

 屋敷を後にするとき、門扉を閉める少女が気の毒な人を見るような瞳を向けてきた。同族を憐れむ表情を浮かべる彼女に向かい、かろうじて薄く笑って見せることができたのが、せめてもの抵抗だったのかもしれない。

 しかし、強がることができたのはそこまでだった。まろぶように車に乗りこみ、シートベルトをつけるより先にまずエンジンをかけた。汗ばむ掌を左右交互に膝にこすりつけ、何度もハンドルを握り直しながら夢中で車を走らせた。

 あそこはだれの屋敷だったのだろう、とまたあらためて考えることができたのは、目に映る風景が、勤務先近くの見慣れたものに変わってからのことだった。

続きは本書でお楽しみください。

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