戦国きっての教養人、明智光秀は医学にも精通していた!/『誤解だらけの明智光秀』③

文芸・カルチャー

公開日:2020/4/13

歴史は時としてウソをつく。「そんなバカな」と思う人こそ、要チェック!2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公に抜擢されて、大注目の明智光秀。東京大学史料編纂所で歴史研究に勤しむ本郷和人教授が明智光秀が生きた戦国時代の“リアル”を愉快に解説します!

『誤解だらけの明智光秀』(本郷和人/マガジンハウス)

光秀は医者だった? 医学知識のレベルは?

 昔の史料の中には、手紙の裏に、まったく別の文書やメモなどを書き記してあるものも珍しくありません。紙が貴重だった時代ですから、不要になったものを裏返してリサイクルしていたのでしょう。そういう文書のことを、「裏文書」あるいは「紙背文書」と言います。

 二〇一四年に発見され、光秀が医者だった可能性があることを示す史料が見つかった! と話題になった『針薬方』という医学書も、十数通の手紙を裏返して綴じられた、「裏文書」つきの書物でした。その末尾の、「この書物が書かれた経緯」や「書かれた日付」などを記した奥書部分に、光秀の名がハッキリと書かれています。

 右一部 明智十兵衛尉 高嶋田中籠城時 口伝也 本ノ奥書此如
此一部より沼田勘解由左衛門尉殿大事
相伝於江州 坂本写之
  永禄九 拾 廿日 貞能(花押)

「明智十兵衛(光秀)が近江・高嶋の田中城に籠城していたとき、『針薬方』について沼田勘解由左衛門尉殿に口伝した(語った)話を、今度は沼田勘解由左衛門尉殿が近江の坂本で米田貞能(のち求政)に相伝したもの。それを、永禄九年(一五六六年)十月二十日に貞能が記した」とあります。

 日付もしっかりと明記されたおり、「光秀に関する記述がある一番古い史料」、つまり「一番若い頃の光秀が登場する史料」ということになります。

 この書類でわかることは、大きく分けて三つです。

 一つは、おそらく、一五六五年に十三代将軍・足利義輝が暗殺された直後に、光秀が口伝した内容だということ。

 二つ目は、光秀がそのとき「近江の高嶋というところにある、田中城に籠城していた」ということ。田中城は、琵琶湖の西から越前方面に向かう交通の要所に位置します。義昭が奈良の興福寺を脱出して近江の矢島、越前の一乗谷へと逃れる中で、警備・防衛の役割を果たしていたのでしょう。

 そして、三つ目は、「わざわざ相伝されて書いたものである以上、当時としては、それなりにレベルの高い医学知識が書かれたもの」ということです。この史料が発見されたことで、これまでに見つかっていたさまざまな史料の謎が、一気につながり始めました。

 たとえば、美濃を追われ、朝倉義景を頼って行った越前で、光秀は十年間称念寺に住んでいたとされます。その間、いったい何をしていたのか?

 当時、朝廷お抱えの医者はいたものの、一般庶民がかかれる医者はいませんでした。そこで、ケガをしたら塗り薬を塗る、腹痛には薬草を煎じる、鍼を打つ、という程度の初歩的な知識でも、牢人医師として歓迎されていた可能性は十分にあります。

『針薬方』には、朝倉家に伝わる塗り薬の処方が記載されていたことから、朝倉家で学んだ知識が応用されていた可能性も注目されています。

 中世の日本では、まだ占いや呪術、お祓いのようなあやしい民間療法が信じられていましたが、ちょうど光秀が誕生したとされる一五二八年には日本初の印刷物としても知られる『医書大全』が出版されています。光秀は鉄砲の名手だったという説もあり、新しいもの、最先端のものをすぐに学んで習得するのが好きだったとすれば、当時最先端の医学に興味を抱いていたとしてもおかしくありません。

 なお付け加えておくと、沼田と米田は義昭を救出した細川藤孝の仲間で、のち細川家の重臣になっています。

初歩的な知識でも歓迎された時代。
空白の十年間、牢人医師として生活していた可能性は十分ある。

<第4回に続く>