ついに彼と再会! 私の座るベンチの、少し離れたところに彼が座った/『2409回目の初恋』⑥

文芸・カルチャー

公開日:2020/5/12

榊詩音は11歳の頃、天文クラブのイベントで一緒に星空を見た男の子、芹沢周に恋をした。高校生になり周と再会した時、彼女は病気で余命1年と宣告されていた。ここからふたりの、千年を重ねる物語が始まる――。

『2409回目の初恋』(西村悠/LINE)

▼7月7日

 七夕! そう、それは織姫と彦星が一年に一度出会う、恋人たちの、宇宙的再会の日!

 七夕おめでとう! 私、おめでとう!

 そして神様ありがとう!!

 今日も、あの駅に行って、あのホームで彼を捜した。その日は、比較的人が多かった。それも浴衣を着た人が多い。少し離れた町で行われる七夕祭りに行く人たちだろう。

 とても大きな、にぎやかなお祭りで、私も夏になると必ず友達と行ったものだった。

 浴衣を着て、その日は少しだけ、ちゃんとメイクをして。露店の灯りが主張する、飾り付けられた大通りを歩くだけでなんだかワクワクしたものだけど。

 今回はそれもなし。誘ってくれる友達はいなかったし、私から声をかけるのも、お祭りを楽しみたい友達にとっては、ちょっと迷惑だろうし。

 そんなこともあって、浴衣を見ているとなんだか気持ちも落ち込んだ。で、その落ち込みは彼に会えるといいなという気持ちにも広がっていって、胸の中を沈んだ気持ちでいっぱいにした。

 まあ多分どうせ会えないだろうから、会えなくてもがっかりしないようにしようなんて、自分に言い聞かせつつ、何度もスマホの時計を確認。前もこれくらいの時間に会ったんだよなー。客観的に見て完全にストーカーだよな、私、これ通報されたら言い訳できないんじゃないかな、などとぼんやり考えていたときだった。

 目の前に電車が止まって、ぱらぱらと人が降りる中に、彼がいた。

 彼は心持ちゆっくりとした足取りで歩いて、私の座るベンチの、少し離れたところに座って本を読み始めた。

 思いがけないことに、嬉しさより、緊張や困惑のほうが先に立った。

 そう、本のタイトルを確認したかった。

 それだけのために、これまで頑張ってきたのだと、彼の読んでいる本に目をやり、それからちょっと笑ってしまった。

 カバーがかかってる。これじゃ何時間にらみつけていたって、タイトルなんてわからない。

 なんてことだろう。

 そうなるともう、どうすればいいのか、いよいよ本格的に迷子になってしまって。

 ベンチの上でモジモジしつつちらちら彼の様子を窺っていると、彼がなんだか怪しいものでも見るように私に顔を向けた。

「どうかしたんですか?」

 彼から声をかけられたとき、色々な状況別に用意してきた答えはきれいに頭から消えてしまって、なんて答えればいいのかわからなくなった。

 記憶にある声とはずいぶん違った。少し低くなって、落ち着いていて、何か少し、落ち込んでいるようにも思えた。

 よく見れば、こちらを見つめる目が少し赤い。あくびでもしたんだろう。眠かったのかも、なんて、どうでもいいことを、私は考えてたな。

「ひ、久しぶり……」

 そう言えただけ、私の勇気を褒めてほしい! あまりの緊張に、何も言えずに走って帰る可能性だって大いにあったんだから!

 勇気をもって絞り出した一言は、けれど、彼を困惑させているようだった。

 彼は困ったように、左手で耳に触れながら、あいまいに笑った。

 その表情に、私のなけなしの勇気はあっけなく消えてしまったんだ。

 彼は私のことを覚えていなかった。少なくともひとめで、彼とあの男の子を結び付けた私のようには。

 そんなものかと思ったし、それでもこうしてまた、話をしているということには不思議な感動を覚えたりもした。

「いえ、すみませんあの、人違いでした。知っている人と……似ていたもので」

 そうとだけ言って下を向く。今さら天文学クラブの話題を出すのは、あまり気が進まなかった。

 忘れちゃってるか、それは、そうだよね。だってあんな、たった一日のことなわけだし。

 とか、理解できて、でもなんとなく、納得したくないような気持ちで、ひとつ頷く。頷くことで、自分はそれについて気にしない、という気持ちになれるような気がした。

 なんだか心が折れてしまって、どうやったら自然にここを立ち去ることができるだろうか、なんて考え始めて――。

「誰か、捜していたんですか?」

 尋ねた彼の言葉が、何を意味しているのか、わからなかった。

「え、いえ、あの……えーと?」

「ああ、すみません。この駅をよく利用する親戚が話していたんです。いつも、ホームで電車から降りる人たちをにらみつけてる人がいるって。それで……あなたのことかなって。違っていたら、すみません」

 親戚……多分、あの、いつも目が合っていたすごくきれいな女の人のことなんだと思う。そう言えばちょっと、目の前の彼と似てるような気がするな、なんてことを考えた。あんなきれいな人がいたら、女を見る目は厳しくなるんだろうな、とかそんなことばかり頭を巡った。

 それから、彼の尋ねるような視線に、ああそうだった、って気づいた。

 質問されてたんだった。ホームで誰を捜していたか、だっけと思って。

「それはもちろん。あなたを捜して――」

 そうぼんやり言ってしまって、思わず口をふさぐ。今日一番のミスだった。自分からストーカーを宣言してどうする!

 全身から体温が抜けていくような気持ちになりつつ、彼を見上げると、やはり彼は怪訝そうな顔をしていた。

「いえ違うんです! すごく、夢中で本を読んでたから、気になって、あの本のタイトルなんて言うんだろうなって思ったんです! 思ったら気になっちゃって、読みたくて。だからその……」

 やたらと大きな勢いのある声から始まって、段々と声が小さくなっていって……。

「……ストーカーでは、ないんです」

 などと、聞かれてもいないことをぼそぼそと付け足す始末。

 思い返せば、本当に今日の私は全体的に不審者だった。

「この本ですか?」

 けれど彼は納得したようにうなずいてくれた。

 スルーしてくれた!

 私は神様に感謝して、同時に、この人ちょっと色々鈍いんじゃないのと思ってしまったことを目の前の彼と神様に内心で謝ったんだ。

「宮沢賢治です。詩集なんです。こういうと、大体笑われてしまうんですけど」

「宮沢賢治!!」

 彼の言葉に、あの日の夜のことを覚えているのかと、思わず大きな声を出してしまった。

「好きなんですか?」

「むしろ、あなたはなんで好きなんですか!?」

 そして思わず勢い込んで聞いてしまった。

 彼は驚いたように私を見て、それからほんの少しだけ、身を引いた。そう、少しだけ。けれど確実に身を引いた。私にはわかる! 私を絶望に叩き落とすには十分なほどの『ほんの少し』だった。

「……言葉がきれいですよね。なんというか、虚飾(言葉、調べた! 難しい言葉を使うなあ)のない、本当に感じたことを、書いているような気がして」

 こんなことを、僕が言うのはすごく生意気なんですが、そう思ったのは事実ですと、彼はそう言って、私の横に座った。

 そのまま足早に去っていくイメージを頭の中に作っていた私は、拍子抜けして、それでも彼が横に座っているという幸運をかみしめていたんだ。

 それから、次の電車が来るまでの、ほんの十分間。

 彼と話をした。

 すごく長い時間のような気がした。それこそ、一日中しゃべっていたような。けれど、すごく短い時間のような気もした。気が付けば、そろそろ行きますと言われたような。

 その時の気持ちを、どう表現したらいいのか、ちょっとわからない。

 ああ、ほんと、もうちょっと私に、気持ちを表現できる力があれば言葉にできるのに。

 心の半分はすごく緊張してるんだ。ちょっとした動作や、言葉や、なんだったら言葉と言葉の間にある黙っちゃった瞬間にまで、あれこれ意味を感じて、笑った、やったー! ってなったり、困ってる! 間違えた! そうじゃないんです、本当なんです。ただ話を合わせたかっただけなんです! なんて内心では言い訳ばっかり渦巻いて、焦れば焦るほど、どんな言葉でそれを伝えたらいいのか、わからなくなって、何も言えなくなって。

 日は大分傾いて、ホームにはベンチの影が長く落ちて、私たちを平等に赤く照らして、そのことに私はすごくすごく感謝した。私はとても赤い顔をしてたから。ほっぺたの少し上のところが妙に熱くて、意識すればするほどに、熱くなっていったんだ。

 でも同時に、心の半分はどんどん昔に戻っていくみたいだったな。

 あの日の、あの夜みたいだった。そう思った時にはもう、彼が覚えている、覚えていないは、そんなに重要じゃないような気がしていた。

 私があの夜のことを覚えていて、その彼にもう一度会えて、こうして話ができている。それだけで、なんというか、私は満足だった。

 彼は本の話をして、それから、七夕祭りの話をした。

 これから友達と一緒に見て回る予定なんだそうだ。

 一緒に行きたいなんていう勇気は、さすがになかった。

 やがてレールの向う、薄闇のグラデーションの奥に、電車の灯りが見えてきた。さすがに一緒に行きたいとは言えないから、ベンチから立ち上がる彼を、私は座ったまま見上げていた。

「平日は大体、六時十三分の電車で帰るんです。乗り換えの関係で、その十分くらい前から、ここのホームにいます。機会があれば、また話し相手になってください」

 彼はそう言った後、ちょっと迷うように視線をさまよわせ、それから、よければ、と私に読んでいた本を差し出した。

 驚いて本に視線を落として、それから彼を見上げる。

「宮沢賢治が好きなようなら、それ、差し上げます」

 彼がそう言うのと同時に、電車が到着する。彼は一度、小さく頭を下げて、そのまま行ってしまった。

 ドアが閉まり、どの席に座ろうか思案するような彼の背中を目で追って、彼はそれに気づいたようにこちらを見て、もう一度頭を下げた。

 電車が出発したあとも、私はしばらく、その場から動けなかった。

 いっぱい話せた、という満足感と、何か変に思われるようなことを言っていなかっただろうかと、何度も無意味に、頭の中で記憶を再生した。

 ひとり残った私の手元にある本には、先ほどまで持っていた、彼の手のぬくもりが、まだ残っているような気がした。

 

 それが、今日一日のできごと。ほんの十分くらいのことを、ずいぶん長く書いたな。

 でも、それくらい、書くことが多かったんだ。なんだか夢のようだ。

 正直、まだ足元がふわふわしてる気がする。実際のところ時間なんて、そういうもので、適当に過ごせばいつの間にか過ぎちゃってるし、今日の、この十分間みたいに、短い間でも、その後何度も思い返すような大切な時間になるんだってことが、よくわかった気がする。

 だって見てよ、この文章量! これ、一日で書いたんだよ? すごいでしょ!

 我ながら単純すぎるという気もするのだけど、七夕に、こういうことが起きるということに、何か意味のようなものを感じてしまう。

<第7回に続く>