日本語への歪んだ愛情/巴奎依の社会不適号⑥

アニメ

公開日:2020/11/6

巴奎依
撮影=山口宏之

これは職業柄なのか、普段から自分の言葉で何かを語ったり、自発的に何かを発信したり、何につけてもオリジナリティを求められることが多いです。

私が自分の中の大切な感情を語らなくちゃならないとき、使い古されたような、受け売りのような、自分の中から生まれたわけじゃない言葉を使うのが、私はとても嫌いです。

人の言葉を借りてしまうと、やっぱりどうしても自分が本当に言いたいことから数ミリ角度がズレている気がして、それにすごい違和感を感じてしまうんです。

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例えば一つの形容詞だとしても、
今の自分の感情は「虚しい」かな、「悔しい」でもないし、強いて言うなら「苦しい」が一番近いかなと、人と話している途中でも考え込んでしまいます。

何故黙り込んでいるのか分かりにくいし、会話していてとても面倒くさいタイプです。

その時々の自分に一番当てはまる言葉を見つけられたときに、少しだけ自分を理解してあげられたような気がする。

そう感じているのは私だけなのかもしれませんが、
その「面倒くさい私」を腫れ物のように扱われたときに、
人間は毎日色々なことを感じまくってたくさんの情報を飲み込んでいるのに、ボキャブラリーが足りていなくてあまり言語化できていないだろうなと思うんです。

私は、そういう人にはなりたくなくて。

結局、自分の気持ちは自分にしか分からないのにそれを言語化できないまま言葉にしてしまうと、他人に憶測されて、どんどん変形していってしまう。
その前に私が私を言語化しないと。と焦ってしまうんです。

私がそう思うようになったのは、音楽を聴いているときでした。

日本人には特に、感情移入や共感を大切にしているイメージを私は持っていますが、
私もきっとその中の1人で、上手く言語化できないから私は音楽を好きになって、その時に当てはまる言葉を音楽に見つけて、「これは私の歌だ」と思い込んで音楽を救いとして生きている。

その流れで、言葉を知りたくて小説を読むようになり、その時々の自分の感情に一番近いものを常に言語化していようとするようになった気がします。

これってつまり、めちゃくちゃ私のナルシシズムだと思うんです。
ものすごい自己愛の結果。それでいて閉鎖的なナルシシズム。

結局は、君にも貴方にもお前にも、どうせ私のことは理解できない。私のことは私だけが知っていればいい。私が私の理解者だからここから先は踏み込むな。ってことを長々と語っていただけな訳ですから。

うーん、こうして文字に起こしてみると、人間としての問題点が明白になってしまったなと、過去の日々を反省しています…。

ともえ・けい
1月5日、東京都出身。2012年よりA応P(アニメ“勝手に”応援プロジェクト)のメンバーとして活動をスタート。2020年8月2日に、A応Pを卒業。「DJサブカルクソ女」としても活動中。社会不適合者(自称)。
公式Twitter:@kei_tomoe
公式Instagram:kei_tomoe_official