与謝野晶子はのちの夫鉄幹を友人とともに想い歌に詠む/炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史⑤

文芸・カルチャー

更新日:2021/2/6

日本文学史に残る数々の名作の裏には、炎上があった…! 不倫やフェチ、借金、毒親、DVなど…文豪たちは苦しみながらアノ名作を残した。炎上キーワードをひもとき、彼らの人生の一時期を紹介する『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』(山口謠司/集英社インターナショナル)から、5つの炎上案件を掲載!
※本記事は 山口謠司 著の書籍『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』から一部抜粋・編集した連載です

炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史
『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』(山口 謠司/集英社インターナショナル)

与謝野晶子の晦渋

師への激しい恋心を詠んだ女性たち

炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史
イラスト:三浦由美子

 此書一度世に行はるるや、雑然として物議起りぬ。晦渋の歌なりとは一般の言なりしが実感的なり肉愛的なり、尚一歩進んで、春画的なりとの非難亦少からざりき
(平出修「鬼面録」〈明治三十五年三月『小柴舟』〉
福山恵理『みだれ髪』における「自我独創の詩」の試みより)

 

 明治三十四(一九〇一)年八月に刊行された、与謝野晶子(一八七八〜一九四二)『みだれ髪』に対する非難である。

「晦渋」とは、ふつう「文章などが難しくて、意味がよく分からない」の意味で使われる。

 さほどに難しい言葉が使われた歌ではないのに、なぜ「晦渋」なのだろう。

「晦」という漢字は、「太陽」を表す「日」と「暗くて方向も分からない漠然と広がる海」を合わせて、「どこへ行けばいいのかもどのように理解すればいいのかもまったく分からない」ということを意味する。こうしたことから、「大晦日」という言葉にも使われた。これは陰暦の月末で月のない闇夜のことを言う。

 それでは「渋」は何か。

「渋」は、旧字体では「澁」と書かれた。「止」が三つ書かれるが、「止」は「足」を描いたもので、水の中にいてどんなに足を動かしてもどこにも進めない状態を表す。

 つまり「晦渋」とは、「暗くて行く先も見えず、どれだけ頑張ってみても先に進めないこと」を言う言葉なのである。

 やは肌のあつき血しほにふれも見でさびしからずや道を説く君

 この歌がどうして「晦渋の歌」とされたのだろうか。

未知の世界に誘われる不安

『みだれ髪』が刊行された時、晶子は、二十二歳。若い女性が、「私のこの柔らかい肌、あなたを思う熱い血潮、それに触れもしないで短歌の道を私に教えるあなた、空しくはないのですか?」と、歌の師匠に問うのである。

 こうした歌が並べられた歌集『みだれ髪』は、非難を浴びた。

「実感的なり肉愛的なり」「春画的なり」というのは分かるような気がするが、「晦渋の歌」とされたのはどうしてなのだろうか。

『みだれ髪』のページをめくりながら、当時の読者は、この先、これらの歌が自分をどこに誘おうとしているのか分からなくなってしまいそうになったのかもしれない。

 それは、単に「文章などが難しくて、意味がよく分からない」ということではなく、これまでになかった世界に連れて行かれたらどうしよう……という不安によるものだったのかもしれないと思うのである。

鉄幹の悪い癖

 与謝野鉄幹(一八七三〜一九三五)という人は不思議な人である。若い頃の経歴を見ると、この人は一体何をしようとしていたのだろうと思わざるを得ない。

 まず少し、与謝野鉄幹のことについて記してみよう。

 鉄幹は本名を与謝野寛という。歌人で西本願寺支院願成寺の住職・与謝野礼厳の四男として生まれ、礼厳の友人であった歌人で陶芸家の尼僧・大田垣蓮月が命名した。

 数え年五つの時に、父母から仏典、漢籍、国書の素読の教えを受け、十二歳の時に書いた漢詩が漢詩の専門誌『桂林余芳』に掲載され、寛は「麒麟児」と称せられた。

 素読が幸いしたのか天賦の才があったのか分からないが、子どもの頃から、与謝野寛は文才を伸ばしていった。

 明治二十二(一八八九)年、十七歳の時、父親の命令で得度するが、仏門に入る気はさらさらなかった。山口県都濃郡徳山町(現・山口県周南市)で兄が経営する徳山女学校に、国語漢文の教師として採用してもらったのだ。

「鉄幹」の号を使い始めたのは、この頃からだったという。

 そして、悪い癖が出はじめたのもこの頃からだった。

 徳山女学校の生徒、二十二歳になる浅田信子という女性と懇ろになり、信子は鉄幹の子を産む。子どもはまもなく亡くなったが、これが問題となって、鉄幹は退職させられる。

 しかし、この時には、すでに別の女子学生にも手をつけていた。

 林瀧野という女性である。

 徳山にいられなくなった鉄幹は、なんと林瀧野を連れて東京に逃げて行くのである。

丈夫鉄幹と歌

 鉄幹は、徳山女学校にいるころから歌を詠み、詩を書き始めていた。もちろん、歌人である父の影響は少なくない。

 山崎ひかりによれば、「礼厳は作歌の手本として、詩経と易と『万葉集』を根本とし、それが身についたら『古今集』以下近世の集も読むように教えたが、鉄幹は『万葉集』を手本とし、ひたすら万葉調を模倣していた」(「『みだれ髪』論─与謝野鉄幹と山川登美子─」)というが、林瀧野と一緒に上京した鉄幹は、「万葉調を模倣」することから脱皮すべく、まもなく当時著名だった歌人、落合直文の門に入った。そして、浅香社という結社を作り、歌を詠み始めるのだ。

 明治二十七(一八九四)年、「二六新報」に連載された鉄幹の歌論「亡国の音─現代の非丈夫的和歌を罵る」がある。

 その中でも鉄幹は、当時流行していた桂園派の歌に対して「規模を問えば狭小、精神を論ずれば繊弱、而して品質卑俗、而して格律乱猥」と罵倒し、このような「婦女子の歌」が横行するから大丈夫の意気が衰えて国を危うくするのだと記すのだ。

 なんという「丈夫」ぶりだろうか。

 この歌論は、短歌の歴史に革命を起こす正岡子規の『歌よみに与ふる書』に先行し、その先鞭をつけた第一声としてとても重要な歌論であると言われている。

 また、逸見久美『評伝・与謝野鉄幹晶子』(八木書店、昭和五十年四月)によれば、鉄幹は、「日本文学や日本唱歌を教えて日本精神をうえつけよう」として渡韓する。

 その時に、こんな歌を作っている。

 

 きこしめせ。御国の文を、かの国に、今はさづくる、世にこそありけれ。
(『東西南北』明治書院)

 

 ただ、この渡韓は、一八九五年十月八日に起こった乙末事変で無に帰し、鉄幹は帰国を余儀なくされた。

 しかし、そんなことで鉄幹は負けたりはしない。再び渡韓するのである。

 

 世の中の、黄金のかぎり、身につけて、まだ見ぬ山を、皆あがなはむ。(同前)

 

 鉄幹は、四千五百首ある『万葉集』を二度も写した紙を使って大福帳を作り、これをもってなんと、まだ見ぬ山を全部、買ってやると豪語するのだ。

 なんという丈夫ぶりかと驚かざるを得ない。もちろん、この企ては、失敗に終わる。そして、帰国するのだが、朝鮮での成功という夢を忘れられなかったのだろう。三度目の正直と言ったかどうか、もう一度、朝鮮に渡って商売をしようとする。明治三十(一八九七)年七月から翌年四月に掛けてである。

 うまくいくはずがなかった。

 今度は性来の女好きが昂じて、遊びたいだけ芸妓と遊んで帰ってくる。

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