「ドライだね」/巴奎依の社会不適号㉕

アニメ

公開日:2021/3/26

巴奎依
撮影=山口宏之

人からドライと言われる基準はなんだろうか。

昔から、「ドライだね」と評価されることが多かった人生でした。

当時の自分のことを思えば、ドライと言われるはずだと、今になって納得が出来ます。
もし私が漫画のキャラクターだったら、「そこで泣かなくちゃいけないんだよ」ってところで、あまり感情が動かなかった。

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高校で仲良かった子がひとり、またひとりと学校をやめたときも
事務所の一番仲良かった同期がやめたときも
受験に落ちたときも
学校の机やロッカーに悪口を書かれたときも。

なんか、あまり感情が動かなかった。
というか、本当になんとも思わなかったんです。

当時のことを思い出すと、幼い故に本当に何も考えておらず、環境だけが動いていた時期と
他人の人生を他人が決めただけのことなのに、何かを思うなんてことはないと考えていた時期があったように思います。

グループ活動をしているときも、その姿勢が顕著に出ていたのか、メンバーが減っていくたびに
「なぜ引き止めなかった!」「引き止めたと信じています」とよく言われていました。

言ってくる方にもつらい気持ちがあり、自分の心を救うために必要な言葉だったのかもしれませんが、水面下での行動は伝えきれないのでもどかしかったのをよく覚えています。

感情と行動を分離させることに慣れてしまって、悲しかったり、寂しかったりしても
私には誰かの人生の責任を取るほどのキャパシティはないと知っていたので、
誰かが己の中で決めたことに、とやかく言えるほどの無責任さを持ち合わせていなかったんです。

言葉はいつだって撤回は出来ません。
言葉には謝罪だって意味がないんです。

何か言ってはいけないことを、人に対して言ってしまったとき。
謝罪をする理由は、人間関係のためだと思うんです。

「これからも気まずくならずに共にやっていこう」
謝罪とは、その共通認識のためだけにあると思っています。

何故なら、言われた言葉は一生忘れないから。
言われた側がもう忘れよう、忘れてあげようと努力をしても無駄なんです。

たとえ言ってきた相手が恋人だったとしても、「恋人」という認識から「◯◯と言ってきた恋人」という認識に変わる。

悲しいことにこの認識は、一生覆ることがないような気がするんです。

これがドライと言われる理由なのかもしれませんが、一回でも「なんかヤダな」と感じる言動をとってきた人は、何回でも「なんかヤダな」と思う言動をしてくる、という持論です。
つまり、相性が合わないというやつなんだと思います。

そもそも、そこまで言葉と感情をコントロール出来ずに攻撃してくるのが、まず謎ですけどね。

恋愛やSNSだけでなく、対人関係である限り、
この直感だけは誰の影響も受けずに信じた方がいいと私は思っています。

ともえ・けい
2012年よりA応P(アニメ“勝手に”応援プロジェクト)のメンバーとして活動をスタート。2020年8月2日に、A応Pを卒業。現在、インターFMにて毎週土曜28:30〜「DJサブカルクソ女の音楽解体新書」にてDJ番組を担当、DJCD「A応P BEST DJCD PRODUCED by DJサブカルクソ女」をリリースするなど、「DJサブカルクソ女」としても活動中。社会不適合者(自称)。
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