アフリカ系アメリカ人が強いられてきた抑圧を多層的に描く「当事者の自伝」。”矛盾”から目を逸らしたくない人へ

文芸・カルチャー

公開日:2021/7/11

この記事には、虐待や性暴力に関する描写が含まれます。

 愛しているからやさしくする、と言ったとき、違和感を覚える人はそう多くはないだろう。愛することとやさしくすることは、一般的に、等号を以て固く結ばれている。一方で、愛している“のに”やさしくしない、と逆説で結ばれるとき、人々はやや違和感を抱きながらもその裏にある理由に触れたくなるかもしれない。このふたつの形式は一見すると異なるけれど、0か10かのわかりやすさに終始しているという意味では、同じかたちをした物語だ。

 たとえば、順接と逆説がツイストを繰り返すとき、多くの人にとって“受け入れがたい”物語になってしまう。わかりづらいからだ。わかりやすくないと受け入れられにくいことを知っているから、人に何かを説明するときに必要以上に事実を端折ってしまうこともある。

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 しかし、この世の多くのことはそうわかりやすくはないのではないだろうか。そして、それらを端折ってきたことで零れ落ちたものも多かったのではなかったか。

Ikeda Akuri

 今回紹介する『ヘヴィ あるアメリカ人の回想録』(里山社)も、黒人母子の間の愛憎を描いた自伝的な書だ、などと一言で語ってしまうのが憚られるほどに、相反する感情や反応が多層的に描かれている。

ヘヴィ あるアメリカ人の回想録
『ヘヴィ あるアメリカ人の回想録』(キエセ・レイモン:著、山田文:訳/里山社)

 著者であるキエセ・レイモンの母親は黒人女性政治学者として輝かしいキャリアを築く一方で、女手ひとつで育てている、大切な一人息子の言葉遣いや行いを厳しく正し、ときには殴ったり鞭で打ったりする。

 その背景には、白人から攻撃されるような“落ち度”があっては刑務所送りにさせられたり、理由もなく撃たれたりするという身近な危機感があった。つまり、息子を愛しているにもかかわらず、憎き白人の目を憂慮して、息子を守るために殴るのである。とはいえ、黒人の家庭内で暴力が振るわれていること自体も“落ち度”になるから、服を着ていれば隠れるような腹や尻を狙う。黒人母子の物語をザッとさらっただけでも、こんなにも“捻れて”いる。

 黒人が受ける差別や抑圧は白人からのものだけではない。黒人が多く住む地区にある大きな屋敷は近所のティーンたちのたまり場になっていて、そこでは“年上”の黒人の“男子”が力を持ち、“年下”あるいは“女性”の黒人がプールに入るためのルールを取り決めていた。あるときは、黒人の女の子・レイラは年上の男たちからの〈列車を走らせる〉、すなわち性行為を受け入れることをしなければ、キエセたちは彼女のカバンからお金を盗んでこなければプールに入れてもらえなかった。

 そんな理不尽が当たり前に、あちらこちらに散らばっている環境が生まれてしまうのは〈うちの近所ではどこでも、男子は女子が男子に対してできないやりかたで女子を傷つけるように教え込まれている〉からである。男子と女子の関係に限らず、〈ストレートの子はクイアの子がストレートの子に対してできないやりかたでクイアの子を、男は女が男に対してできないやりかたで女を、親は子どもが親に対してできないやりかたで子どもを、ベビーシッターは子どもがベビーシッターに対してできないやりかたで子どもを傷つけるように教え込まれている〉からである。

 年上の男子たちが女子に対して〈列車を走らせた〉ことを知ったとき、キエセには家にベビーシッターとして来ていたレナータという「彼女(恋人)」とのことが蘇っていた。ふくらはぎや腿を好きだと言われ、四の字固めをされ、ときに性暴力に相当する彼女の一連の行為について、〈愛のようなものを感じて、それから死にたい気持ちになった〉と表現する。

 彼女に求められなかったときは〈腿やふくらはぎの筋肉が足りないのではないか〉と思い、飲み食いをやめて痙攣するほどのトレーニングをしていたほどだったから、〈列車を走らせられた〉女子や自分と同い年くらいの男子を不憫に思いながらも、自分が“選ばれなかった”のは〈いちばんデブで、汗っかきだからだ〉と思った。そうした身体への嫌悪感は、過食や強迫観念とも言うべき1日20km以上のランニングの日課や、本書に登場する自分や他の誰かの身長や体重の数値を関係ない文脈でも都度書き込む執拗さにも染み込んでいる。

 本書では、このように薄い皮膜をめくるとまた別の被膜が現れるように、新たな出来事の存在が立ち上がってくる。黒人同士のサヴァイヴァルの仕方の違い、依存症の問題、貧困、麻薬をとりまく問題……。本人でも見落としてしまいそうな出来事と出来事の関連を見出す注意深さ、記憶と対峙する忍耐力、それらを物語として編み直す能力。それらは著者が母から毎日のように教えられた「書いて、推敲する」ことによって培われたものだろう。その事実もまた、善悪では裁けない本書の特徴を体現している。

 こんなにも複雑に入り組ま“されて”しまった問題をどこからどう解きほぐしたらいいのかと、(こんな安易で無責任な言い方が許されるならば)絶望し、頭を殴られたように思考停止してしまう。実際に、最後の章で、著者は〈黒人の子どもたちは経済的不平等、住宅差別、性暴力、ヘテロ家父長制、大量投獄、集団立ち退き、親による虐待から回復することはないのだと認める〉とも書いていて、それに続く言葉にも手放しの希望など落ちていない。

 ただ、現実を冷静に見つめながらも放たれる言葉の群れを前に「何があっても生きていくしかないのだ」と思えるラストは、〈黒人の生の価値を問う〉本書の最後にふさわしい。そしてその言葉の群れに勇気づけられるのは、著者の「同胞」である黒人ばかりではないはずだ。

 愛している“から”やさしくする、ということが世の“常識”だと知ったとき、私は心細かった。私は愛を暴力だと信じていて、傷つくことは嫌だけれども、愛されたいと思ってきたからだ。私に見えている世界はあべこべで、歪んで間違っていて、気持ち悪くて恥ずかしいのではないかとも思ってきた。けれども、矛盾や“捻れ”の多い物語に触れる中で、私だけではないのだと静かに励まされてきた。社会の表通りに出てこない物語は、いつも私の「同胞」だった。

 性別も、年齢も、肌の色も、置かれた社会的背景も異なる人が書いた〈黒人の自伝〉。しかし、矛盾の整合性をとろうとしない真摯な姿勢が、この本に普遍性を宿らせる。

文=佐々木ののか、バナー・イラスト=Ikeda Akuri

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。
Twitter:@sasakinonoka

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