クソデカミステリ!「九百マイルはめちゃくちゃ遠すぎる」/小林私「私事ですが、」

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公開日:2022/2/19

美大在学中から音楽活動をスタートし、2020年にはEPリリース&ワンマンライブを開催するなど、活動の場を一気に広げたシンガーソングライター・小林私さん。音源やYouTubeで配信している弾き語りもぜひ聴いてほしいけど、「小林私の言葉」にぜひ触れてほしい……! というわけで、本のこと、アートのこと、そして彼自身の日常まで、小林私が「私事」をつづります。

小林私
図:小林私

  一

 

 「時に君は、ケメルマンの九マイルは遠すぎるは読んでいるかい」

 藪から棒に訪ねてきた女は他でもない、我が高校の誇る化学教師であり、俺の担任である。つい一時間程前、最後の授業が終わった。卒業式は後日にとり行われるが、本日で実質三年間の学業を修めたことになる。終礼も終わってさて下駄箱へ向かおうとしたとき、この先生様から教材を理科準備室まで運べという重大任務を拝命した。そして今し方その任務を終えたので家へ帰ろうとしていた矢先のことだ。この感情を一言で言い表すなら、

 「帰っていいすか、先生」

 「読んだのか、読んでないのか、どっちなんだ」

 おかしい。俺の表情筋が人並みに動いていたとしたら、100人中100人が彼はさぞ不機嫌なんだろうと感じたはずだ。にもかかわらず眼前の教師は何事もないように、むしろ自分の質問に答えなかった事に腹を立てた様子で椅子に座り腕を組んだ体勢を崩さずにいる。もしかしたら俺は何かの病気かもしれない、今すぐ帰って病院に行くべきだろう。

 「……」

 「……」

 「……」

 「……読んでないっす」

 根負けした。

 「そうか。まあ私も読んでないんだがな」

 なんだと。

 「いやなに、例えば盗み聞きを働く輩がいて、まだ知りたくなかった本の内容という流れ弾に当たってしまわんでもない。これは相応の配慮というやつさ。もちろん何かの手違いでその一端を知り得てしまう可能性も否定出来ないが、そこまで繊細な者は盗み聞きには向いていないだろう」

 「……本題に入ってください」

 いよいよ俺は帰ることを諦め、ひとまず話を聞いてやろうと思った。散々こき使われた三年間だったが、最後に話を聞くくらい構わないだろう。

 「うむ。素直でよろしい」

 やっとのこと我が意を得たりと満足げにうなずき、話を始めた。

 「まあ読んでないとは言っても有名な作品だ。……九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、まして雨の中となるとなおさらだ……だったかな。翻訳にもよるだろうから多少の差異は気にしないでくれ」

 「かついまんで話すと、その文章だけを頼りに推論を拡げ、とある真実に辿り着く……というお話だ。」

 「そのあらすじを聞いて、私は思った。……」

 彼女は一度目を閉じ、勿体つけて続けた。

 「私もやってみたい、と」

 「帰ります。」

 「まあ待ちたまえ、こんな日に一人で帰ろうとする生徒なんてのはどうせ帰っても暇なんだ。それなら私のひまつぶしに付き合ってくれたってバチは当たらないだろう」

 バカバカしい。卒業前の浮かれた雰囲気に呑まれすっかり忘れていたが、そういえばこんな調子の暇潰しに三年間付き合わされていたんだった。やれあれが気になる、これが気になるで、この教室に随分長く入り浸らされたものだ。

 ただ帰っても暇だろうというのは図星だった。友達が全く作れずに困りましたという程の学生生活ではなかったが、最後の放課後、いの一番に遊びに誘ってやろうと思われるようなクラスメイトでもなかった。図星を突かれ、無理に帰るのもアホらしくなってしまい、俺も椅子を引っ張り出して座った。

 「さて、君が私をニッキイ・ウェルトにするにはまず推理する文章の提示が必要だ。何かこう、上手い文章でも思いついてくれ」

 じつに投げやりである。ミステリのことはよく知らないが、こういうのは適当でいいんじゃないか。大事なのは探偵役の推理だろう。そう思って俺も投げやりに答えた。

 「“九百マイルもの道を歩くのは容易じゃない、まして雨の中ならなおさらだ”」

 「君というやつは……全く呆れ果てる怠け者だな。まあ良いだろう、それで考える」

 なんとなく、これで呆れて話が終わればそれで良いとも思ったが、彼女は意外にも真面目な顔で考え始めた。もたれた椅子の背からキイと音が鳴る。カーテンの隙間から覗く薄ぼんやりとした明かりを横目に、この話が長くならないことを祈った。

 

  二

 

  彼女は文章に誤りがないように、備品だろうか少し埃臭いホワイトボードにキュキュと音を立て、
『九百マイルもの道を歩くのは容易じゃない、まして雨の中ならなおさらだ』と書き記した。

 「えー、一マイルは約一・六キロメートルだから、九百マイルだと大体千四百四十キロメートルくらいだな」

 「はあ」

 「まず、九百マイルは本当に容易に歩ける距離ではない」

 「でしょうね」

 「でしょうね……って君が言ったことなんだがな。日本で換算すると……」

 「ここから最北端くらいまでは行けるんじゃないすか」

 「待て待て調べる……うん、まあ間違いないだろう。確かに東京から宗谷岬までで、大体そのくらいだ」

 パソコンで地図ソフトを開いて、案外慎重に推理を進めている。というかそれは教員用のものじゃないか? まさかこんな授業とは程遠いことを検索されるとはパソコンも思ってなかっただろう。願わくばこの不良教師に何か鉄槌が下ればと思わなくもない。

 「徒歩の速度平均は時速四キロメートル。休みなく歩き続けても約十五日間もの旅になる、当然容易ではない。が、しかし話し手からしたら実は大層な距離ではない」

 いやいや、

 「それはおかしいでしょう。」

 「ようやく君も乗ってきたね、何故そう思う?」

 つい興味を惹かれたことを言い当てられ一瞬むっとしたが、仕方ない。気になることを解消する方が先だ。

 「何故も何も、容易に歩ける距離じゃないってのは前提でしょう。それに加えて十五日間歩き尽くすことが大層じゃないわけがない」

 「いや、むしろその逆だ。話し手は九百マイルもの移動で“徒歩”を前提にして話している。普通なら車や電車やバスや飛行機、よほど酔狂な人間でも自転車くらいは使うだろう。
 そして『まして雨の中ならなおさら』という文言。ここまでの長距離に最早天候など関係あるのだろうか?十五日以上も降り続く雨とは?

 ……少し付け加えたい条件がある。話は脱線するが、この話し手は日本人だろう。」

 「そうとは限らないのでは? 日本人にマイルは馴染み深くないでしょう」

 「マイル換算くらい調べたら簡単に分かる、さっきのようにね。それよりも、この文章は日本語だ」

 言葉遊びの範疇だ。それこそ翻訳でもなんでも出来るだろうが脱線してまで付け加えたかった条件だ。それに話が海外まで飛躍してしまうと更に帰りが遅れそうなので俺は黙って頷くことにした。

 「よし、話者は日本人だ。スタート地点もここの周辺からとしよう。 日本で十五日間以上雨が降り続くことは梅雨期でもない限りは稀だ。そして九百マイルもの距離の移動の中でずっと降り続いていることは更に稀だろう。」

 「少なくとも梅雨期ではないんじゃないすかね」

 彼女はほう、と感心したような声を出し、俺に続きを促した。もうこの際口出しすることに抵抗はない。

 「自分で言い出したことすけど、『まして雨の中ならなおさらだ』……話し手は移動の中で雨が降ることを想定していません。
 初めから雨であれば『この雨の中、九百マイルもの道を歩くことは容易でない』とでも言うでしょう。梅雨期に雨が降ることに『まして』をつけるのは不自然だ」

 「よし、では梅雨期ではないことが証明された。同時に、話し手の徒歩の速度が尋常ではないことも明らかになった。何故か分かるかい?」

 「えー、梅雨期以外で、例えば東京から宗谷岬まで、十五日間以上連続で雨であることは考えにくく、その降り続けている数日間でその距離を移動出来るから……?」

 ほとんどこじつけのような理論だが彼女は満足そうに頷いた。

 「ここまでの話をまとめよう。話し手にとって九百マイルは少しうんざりする道のりではあるが、雨が降ってから止むまでの数日で踏破可能な距離である。」

 「……人間ですか? それ」

 いよいよこっちが呆れてきた。そんな俺を意にも介さず彼女は続けた。

 「雨が降り続く期間は普段ならせいぜい三、四日だろう。九百マイルを三日で割ると一日三百マイル進まなければならない。約四百八十キロメートルだから、時速に換算すると二十キロメートル毎時だな」

 「ええと、走るのはルール違反すよね」

 「その通り。つまり、話し手は“時速二十キロで七十二時間歩き続けることが出来る日本人”ということが分かった!」

 

  三

 

 口は災いの元だのキジも鳴かずば撃たれまいだの、とにかく、ついつい口を挟むのはあまり美徳とされていない。ただ、例えば目の前で今にも手荷物を落としそうな人がいたら「あっ危ない」と言うだけで防げる事故も数多あるだろう。

 思い返せば一年生の時、クラスで委員会を決めるときに学級委員長の枠が余った。理由はなんとなく面倒そうだからというだけの理由で、クラスメイト全員が何か役職につくシステムなら何も文句はなかっただろうが、生徒数に比べて委員の必要数は三割程度。だから、入学当初に挙手に励んだりして目に付くほどお行儀よく授業を受けていなければ、などと悔いるのではなく、嫌ですと一言だけ言えれば良かったのだ。

 手遅れになる前に口に出してさえいれば解決出来る問題はあると知っていたのに、カーテンからは今や一欠片として光は漏れてこない。今や静けさを増した校内で蛍光灯がついている教室の方が少ないだろう。有り体に言ってしまえば、

 「そんなやつはいません」

 ということなのだ。

 「そうか。まあいないだろうな」

 なんだと。

 「いるかいないかなんてどうでもいいんだ、最初からひまつぶしだと言ったろ。雨が降ってるかは知らんが連続で九百マイル歩くやつだっているだろう。酔狂なやつはどこにでもいるもんさ」

 意図が分からない。それならもっと早くから、妖怪ですねだとか言って無理矢理こじつけてもよかったのに。もやもやした気持ちをまた言い淀んでしまっている俺を前に、しかしいつになく彼女もまた自分と似たような顔をしている気がした。

 「……その、例えば、少なくとも。私や君は九百マイルを数日でどうこう出来る人間ではないし、そんな気を起こすほど大それた考えも持ってないと言えるな。だが人間が一生で歩く距離は地球三周分にも及ぶと言う、距離にして約八万マイルだ。」

 「何が言いたいんです?」

 「だから……まあ、なんだ。要するに、自分なりのペースでいいってことなんじゃないか。」

 ……

 ……ああ、ようやく合点がいった。これは彼女なりの激励だ。なんとなく分かってしまったが、少し聞いてみようと思った。

 「まず、俺達は大それた人間ではない。」

 彼女は一度だけ首を傾げてから、なるほどと呟き、頷いた。

 「それでも、八万マイルもの距離を進むことが出来る。」

 「そうだな」

 「まして雨が降っていても、八万マイル歩く間に降り止まないことはないっすね。」

 「梅雨期でも難しいだろうな」

 「…」

 「…」

 「…」

 「……卒業おめでとう。ま、頑張れ」

 今度はあちらが根負けした。一言で済むことをここまで引っ張るとは、流石三年間こき使ってきた先生様だ。またキイと音が鳴った。彼女はこちらに向けて座っていた椅子を窓の方へ回転させ、カーテンを開けた。黒く染まった空をしばし眺めてから、俺に背を向けたまま立ち上がって言った。

 「……ずいぶん夜も更けた、送って行こうか。」

 「……いえ、帰れます。……三年間ありがとうございました。」

 

  四

 

 ローファーの爪先をトントンとしながら、校舎を振り返る。まだ明かりの灯る理科準備室のカーテンはいつの間にか閉じていた。卒業式はまだ少し先だが、もうあの教室に戻ることはないだろう。

 外は寒く、一つくしゃみをした。

こばやし・わたし
1999年1月18日、東京都あきる野市生まれ。多摩美術大学在学時より本格的に音楽活動をスタートし、2020年6月に1st EP『生活』を発表。シンガーソングライターとして自身のYouTubeチャンネルを中心に、オリジナル曲やカバー曲を配信し支持を集めている。J-WAVE (81.3FM) 「SONAR MUSIC」内「SONAR’S ROOM」毎週月曜日パーソナリティを担当中。ニューアルバム『光を投げていた』を3月9日にデジタルリリース、3月30日にCDでリリースする。先行シングルとして清竜人氏提供曲“どうなったっていいぜ”を配信中。
3月5日 J-WAVE トーキョーギタージャンボリー 2022 supported by 奥村組
5月1日 VIVA LA ROCK2022
に、それぞれ出演予定。

Twitter:@koba_watashi
Instagram:https://www.instagram.com/iambeautifulface/
YouTube:小林私watashi kobayashi
YouTube:easy revenge records

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