土橋章宏が描く、名代官の感動の時代小説『縁結び代官 寺西封元』特別試し読み掲載!#01

文芸・カルチャー

公開日:2024/1/29

2月9日公開の映画『身代わり忠臣蔵』の著者が描く、感動の時代小説、特別試し読み!!
「荒廃した村に、人を呼び戻せ!」
老中・松平定信から突如呼び出された寺西封元。不安を胸に定信の元を向かうと、とんでもない依頼が……。

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土橋章宏が描く、名代官の感動の時代小説
『縁結び代官 寺西封元』特別試し読み#01

序章 徒士

 かんせい元年(一七八九)、夏──。
 西にしまるかちぐみてら西にしたかもとは、場内徒士かち控えの間で〈かん〉を読みふけっていた。
 封元の小柄なたいの上には大きな頭が乗っている。後頭部が長く、額がぐっと張り出していた。
 朝から風が少なかった。封元の額から出た汗があごまで落ちて、はかまにしたたっている。暑い。暑すぎる。
 額の汗をぬぐったとき、窓から蟬が飛び込んできた。ぱたぱたとせわしなく飛び回り、天井にしがみつく。正体はあぶら蟬だった。この部屋に飛び込んでくるのは大抵こいつである。江戸城の高いへいも、蟬の侵入は防げない。
しんでは蟬を食うと言うが、本当だろうか)
 天井の蟬を見つめた。飯を食ったのは昨日の朝だから、もう丸一日食べていない。腹の真ん中がしこって硬くなっている気がする。
 しかし借金を返さねばならぬ。長い年月の間に、積もりに積もった膨大な借金だった。安いほうろくだけで返していくのはなんとも苦しい。それなのに我が子くらはちょうど食べ盛りときている。まだ蔵太が小さいころ妻は病で逝ってしまった。それからは男手一つで育てている。せめて満足に食わせてやりたい。そして子に食わせるためには、親が我慢するしかない。
 視線を書に戻し、また読み始めた。空腹から気をそらす必要がある。
 部屋には、ぱらぱらという書をめくる音だけが響いていた。
 封元が書を読むのは速い。半とき(約一時間)ほどで一冊を読み終えてしまう。
「おかわりだな」
 脇に積んである書物から〈孟子〉を取り上げた。性悪説より性善説のほうが、口当たりがいい。
 再び書を開いたとき、後ろから声が聞こえた。
「寺西はおるか」
 振り向くと、組頭のいのうえへいもんだった。
「ここにおります」
「また勉学か」
「それくらいしか能がありませんゆえ」
 封元は唇に笑みを浮かべた。
 御徒組の勤めは、将軍出行のとき、物見として道中の警戒をすることが主である。武芸の熟練した者が選ばれるので、ろくの少ない者からも何人かがばつてきされていた。封元はその一人だった。
 しかし本当のところ、封元は武芸より学問が好きだった。二日に一度、しようへいざかの学問所に通い、講義を聴くのが何よりの楽しみだ。
 いくら剣術が強かろうと、貧乏御家人の分際では、出世の望みはない。出世するにも上役に対するあいさつや付け届けなど金がかかる。今の微禄を守り抜くしかない。
「変わり者よな」
 井上はあきれたような顔で言った。
「はっ」
 封元は、にっと笑った。馬鹿にされているほうが、上役から嫌がらせを受けにくい。裕福な家に生まれた御家人の上役たちはそのような示威行為が好きである。あるいは、単なる暇つぶしなのかもしれない。
「今日はご老中がかんえいへおいでになる。警護につけ」
「承知しました」
 書を脇に置き、立ち上がる。床から足が離れるとき、ねちっと音がした。
 半刻後、封元は仲間の徒士十二人と老中のを警固しつつ、もん近くの堀端の道を歩いていた。
 登り坂の上、日の当たる道は乾いて白茶けており、陽炎かげろうでわずかに揺らいで見える。
(それにしても暑い。いや、むしろ痛い)
 日差しがじりじりと肌を焼く。屛際の影の中に入りたいが、道の真中をそれることは許されない。老中は風通しのいい駕籠の中でじっとしていればいいだろうが、下っ端は真夏の太陽から逃れられない。
 汗で体にへばりついた袴を、手で引っ張って直そうとしたとき、目の端で何かが動いた。
 武家屋敷の並んだつじから粗末な着物姿の者たちが走り出てきた。
「お願いいたします!」
 先頭の男は〈訴〉と書かれた真っ白な書状を持っていた。
 徒士たちはすぐさま駕籠を守る陣形を取った。百姓は七、八人というところか。
 封元も暑さを忘れ、瞬時に身構えた。
「お願いでございます! 我らだのくにの百姓でございます。ご老中さま、どうかお聞き届けを!」
 やはり強訴だった。徒士を務めていると、たまに遭遇する。このところ何年もきんが続いているので、直訴もそれだけ多くなってきている。
(飛驒の国といえば天領だったな)
 封元は記憶をたぐった。
 治めているのは代官のおおはらまさずみだ。その父、大原つぐまさが代官であったときも強訴が何度かあり、多くの百姓が捕らえられて死んだ。
 ゆううつになった。
 この者たちも死んでしまうのか──。
「無礼者!」
 組頭の井上が両手を広げて立ちふさがった。他の徒士たちも百姓たちが駕籠に近づくのを阻止する。
 しかし百姓たちも必死の形相で駕籠に走った。
 猛烈なもみあいになる。封元も一人の百姓の帯をつかみ、投げ飛ばした。
 しかしまたやってくる。
(馬鹿。さっさと逃げるんだ!)
 封元は歯を食いしばって、百姓たちを打ち払った。
 だが必死の抗議も短時間で終わった。みな肩を上下させ、息切れしている。ろくに食べていないのだろう。
〈訴〉と書かれた書状は争いの中で徒士たちに踏まれて破れ、中身が飛び出していた。
 百姓の長らしき男が、魂の抜けたような顔でそれを見る。
 そのひとみはしぼんでいた。
 着物の胸元から見える体のあばら骨がふいごのように動いている。ひどくせこけていた。
 そういえば先ほど別の百姓を押し返したときも妙に軽かった。
 訴状を届けることだけが飛驒の百姓たちの望みだったのだろう。
 しかし強訴は禁じられている。手打ちにされても文句は言えない。その場で死ななくても、強訴に加わったとなれば、まず確実に死罪となる。
(気の毒にな)
 百姓たちほどではなくても、自分も暮らしに困窮し、空腹に苦しめられている。腹が減って食べるものがないことほど、惨めなことはない。
 ちぎれた訴状が風に吹かれ、はためいている。
(そうだ!)
 封元は破れた訴状の中身を拾い上げると、一瞬で目を通した。
 一か八か、やってみるしかない。
「控えい! 百姓の分際で、大原代官の悪政を止めたいなどと申すか!」
 封元は腹に力を込め、大音声で言った。
 百姓の長らしき男が、はっとこっちを見た。せつ、瞳に生気が戻る。
「そうでございます。大原代官が不正ばかり働くのです!」
「されど強訴はならぬ。いくら文句があるとはいえ、まずは筋を通せ」
 封元が言う。
「何度も筋を通して訴えました。しかし、代官所が訴えをすべてにぎつぶすのでございます。我らのできることはもうこれしか……」
 声がれ、男の顔がゆがんだ。こぼれ落ちた涙は、乾ききった頰にたちまち吸い込まれた。
「寺西、それを」
 井上が言った。
 駕籠にいた老中から届けるよう指図があったらしい。
 声は届いたのか。
 封元は頭を下げ、訴状を渡した。
 痩せこけた百姓の長が封元に向かって土下座した。
 封元は横を向いて素知らぬ顔した。
「寺西。よけいなことはするな」
 井上が小声で言った。怒らせてしまったらしい。
「すみません」
「たかが百姓じゃないか」
 違います、という言葉を飲み込んだ。口に出してもどうなるものでもないだろう。
 百姓たちは近くの門から応援に駆けつけた門番たちに連れられていった。
 この強訴の半年後、大原正純は島送りとなった。親子二代にわたって続いた代官の不正、いわゆる大原騒動と言われる暴動は終わった。
 封元に土下座した百姓は、強訴の首謀者であったので、即刻死罪となった。

(つづく)

作品紹介

縁結び代官 寺西封元
著者 土橋 章宏
発売日:2023年12月22日

民のために人生を捧げた名代官の感動物語! 書き下ろし。
幕府御徒組頭の寺西封元は、突然、老中首座の松平定信に呼び出された。ただごとではないと、不安を胸に定信の元へ向かうと、封元は驚くべきことを命じられる。陸奥国白川郡塙の代官になれというのだ。そこは、飢饉で困窮し、民が逃げ出しているという。定信からの信頼に応えるため、封元は代官を引き受けるが、塙の地は赤子が捨てられる絶望の地だった──。苦しむ民のために自らの半生を捧げた、名代官の知られざる感動の物語。

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