Interview Long Version『権現の踊り子』町田 康 2003年5月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

■すべてはタイトルから始まった──「鶴の壷」

──短編集の冒頭を飾る「鶴の壷」は、語り手の「わたし」が若いころに世話になった旧友の鶴に壷を返しに行く物語です。これまで町田さんが発表された小説の中でもっとも短い作品ですね。
町田 「鶴の壷」は「東京新聞」の夕刊に99年に発表した作品です。出版に際して少しだけ加筆しました。
 それまで書いた小説のほとんどは100~200枚ぐらいの中編で、10数枚の短編を書くのは初めてだったので、試行錯誤しながら書きました。短編の場合、中・長編に比べて執筆に要する時間は短いのですが、物語を凝縮させていくためのエネルギーが必要です。「鶴の壷」は、短編ならではの集約感がある作品だと思います。悲しい話であり、せつない話だと思います。
――タイトルに含まれる“鶴”と“壷”は、町田さんの詩や歌詞の中にも頻出する町田康的語彙とでもいうべき言葉だと思います。

 町田さんのアルバム『メシ喰うな』の中に、「つるつるの壷」という曲が収録されています。このタイトルは後に町田さんのエッセイ集にも付けられることになるわけですが、「鶴の壷」は「つるつるの壷」と重なり合う言葉の響きをもっています。町田さんの中で常に意識されている言葉やイメージがあって、ある時は散文的な方向にむかい、別のシチュエーションでは詩の中で表現されたりする。そのような言葉とイメージのダイナミックなつながりを「鶴の壷」には感じます。
町田 「鶴の壷」は、タイトルを思いついたことで書くことができた作品です。特定の言葉からインスピレーションを受けることはあっても、タイトルから物語全体を発想することはそれまでありませんでした。
 自分の中で、歌詞と小説と詩の言葉が行ったり来たりする部分は確かにあります。詩を書いている時は詩と散文の言葉の違いを強く意識しますが、小説を書いている最中はあまり意識しません。ですから、詩や詞の言葉が小説の中に紛れ込んでくることはありうると思います。
──『権現の踊り子』は初の短編集と銘打たれていますが、「くっすん大黒」や「夫婦茶碗」や「きれぎれ」のような作品は町田さんの中では中編として位置づけられているのでしょうか。
町田 もちろん短編と中編には分量的な違いがありますが、長さの感覚というのは身体的というか、体で実感するものなんですね。

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 ここ数年、50枚から80枚ぐらいの短編を集中して書いてきましたが、書き始める前にこのモチーフはこのくらいの枚数になるだろうというのがだいたいわかります。この短編集に収録されている作品も、「くっすん大黒」や「きれぎれ」と違って、80枚以下になるだろうと予測して書きはじめた作品です。

■工夫することが呼び起こす悲喜劇──「工夫の減さん」

──「矢細君のストーン」の矢細は、「やぼそ」と「やほそ」のどちらで読めばいいのでしょうか。
町田 どちらでもいいんですが、僕が書いているときは「やほそ」と読んでいました。
──町田さんの作品タイトルや漢字表記された名詞の中には、どう読めばいいのか一瞬考え込んでしまうようなものが多く含まれています。言葉の微妙なニュアンスを演出されようとする、町田さんのこだわりが感じとれます。ルビが振られていない箇所については、読者に読み方を委ねてしまおうということなのでしょうか。
町田 ルビを振っていない部分については、どのように読んでもらっても構わないことを前提に書いています。珍しいけれど実在する名字なども使っています。そういう固有名詞については一般的な読み方で読んでもらえばいいのですが、中には造語もありますが読者自身の感覚で読んで貰えればよいと思います。

──町田さんの造語なのか一般名詞なのか判別できずに、漢和辞典を何度も引きました。
町田 一般名詞の中にも造語がありますからね。校閲からよく指摘されますが、漢字なので感覚的な理解ができると思います。そういう部分も作品の面白さの一つとして受けとめてもらえればと思います。
──「矢細君のストーン」のストーンとは“さざれ石”のことですが、これは「くっすん大黒」の大黒様につながるような意味のないものというか、持て余してしまう物の形象としてとらえられるのではないかと思いました。
 矢細君は祖父から譲り受けたさざれ石を福を授けるアイテムとして大切に扱いますが、役に立たないことがわかるやいなや他人の家の庭にうち捨ててしまいます。石の扱いをめぐって揺れ動く人間の心理を表現されたということでしょうか。
町田 小説というものはそういうものだと言ったらそれで終わってしまうわけですが、人間の心の動きを描くとき、そのような「もの」は誰にでもここあたりがある分、有効です。

 さざれ石の扱いをめぐる心の動きもそうですが、この作品では登場人物が住んでいる家の佇まいとか矢細君と語り手の関係を通して、郷愁をそそるような時代的な空気感や雰囲気も追及しました。
──「工夫の減さん」は、生活のすべてにおいて工夫を凝らす生き方を徹底するあまり、ネガティブな状況に陥っていく減さんの趣味世界を友人の視点から描いた作品です。減さんは貯蓄をするために工夫をし、工夫に失敗して鬱屈し、鬱屈を晴らすために飲みに行き、飲みに行くと出費が増え、結局、貧乏生活を余儀なくされ、それゆえに貯蓄をせずにはいられないという、負のスパイラル状況にはまりこんでいきます。悲劇的であり喜劇的な物語ですね。
町田 負のスパイラルといっても、当人が勝手にスパイラルになっているだけです。減さんのような生き方を否定しているわけではありません。嗤っているのでもありません。なんでも工夫で乗りきろうとする減さんは愚かですが、そのような愚かしいところに人間らしさを感じます。
──この作品では工夫という言葉がまさに“工夫”されているというか、これまでこういう形で工夫の意味を考えた人はいなかったように思います。この発想はどこから出てきたものなのでしょうか。
町田 以前、自宅に二人組の若い作業員がやってきました。湯わかし器を取りつけるためにやってきたのですが、ふたりが帰った後、点火用の乾電池が落ちました。翌日電話をかけたらまた作業員が来てしばらくごそごそしていたかと思うと、「大丈夫です。こうやってひねるように電池をいれれば」と言いました。工夫をしろということです。

 工夫というのはちょっとした小手先のやりくりでなんとかしようということですが、根本的にやり直さないとだめなのはわかっていても、つい工夫でなんとかならないかと思ってしまうのです。前の戦争の際には『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』という標語がありましたね

■意識の水面下にある風景を描く──「権現の踊り子」

──表題作の「権現の踊り子」は、その年におけるもっとも完成度の高い短編作品に贈られる川端康成文学賞を受賞した作品です。
 異世界のような場所で凶暴な男と出会い、その男の繰り出す奇妙な品々を永久に批判し続けないと暴力を振るわれる不条理な状況に語り手は徐々に追い込まれていきます。人間関係と心理と場のねじれを描いた、まさに短編的な魅力が凝縮した作品です。日常の中に遍在する風景、意識下の風景を描いた幻想小説としても読めます。
町田 主人公が暮らしているのは、富裕層と貧窮層に分かれた物資が欠乏している社会です。現在の日本の状況を加速させたような世界ですね。
 減さんもそうですが、近代文学の中でその言動が文章的に理解不能すぎて描かれてこなかった人物がたくさんいると思います。そういう人たちを小説の中に登場させたいと思っています。言葉についてもそうで、方言や卑俗な言葉、古めかしい言葉や若者たちが使っている新しい言葉などを意識的に使ってきました。手のひらからこぼれ落ちてしまう砂のような言葉を使いたい。描かれてこなかった人物や使われてこなかった言葉への思いが自分の中にあります。

──楽隊や古びた出店が建ち並ぶ権現躑躅祭の懐郷的な風景も、忘れ去られた風景といえるかもしれませんね。
 権現祭の描写の中に、たとえば六〇年代的な時代の空気を読み取ることができるように思うのですが、町田さんの中に原風景的なものがあるのでしょうか。
町田 あると思います。
 先日、コインパーキングの前を通りかがりました。周りは石垣で囲われていたのですが、石垣の上にブロック塀が積み重ねられていて、さらにブロック塀の上に金網のフェンスが一体化するように設えられていました。石垣はやめて近代的なブロック塀で囲い直そうと考えたけれども、うまくいかなくて金網のフェンスを建ててしまった。失敗に失敗を重ねていった痕跡が歴然と現れた塀でした。そういう珍妙なものは実は街のそこかしこにあり、そこにとても人間的ななにかを感じます。
──「権現の踊り子」の中で、印象に残った部分があります。それは、男が店で提供する自家製カレーの感想を求められた語り手が、「自分や自分の体験が特殊であると信じてそれだけを根拠に詩や小説を書いたり」する人間を否定するシーンです。作者の内側の言葉がふっと出てきたような印象を受けました。
町田 詩や小説だけでなく音楽などを含めた表現全体に対する考えですね。ここでは語り手の考えと作者の考えが重なりあっています。

■現代人の心の中で生起しつつある爆発的な地殻変動──「ふくみ笑い」

──「ふくみ笑い」は、「権現の踊り子」同様、描かれる世界が幻想的かつ重層的で、深い読み込みが必要とされる作品です。語り手の周囲でふくみ笑いが次第に増殖していき、人間関係にねじれを生じさせ、最後は地震のような事態まで引き起こしていくという凄まじい内容の物語です。
 この作品も「鶴の壷」と同じように喚起力のあるタイトルですが、ふくみ笑いという言葉がもつ音の響きや意味内容に何らかの引っ掛かりを覚えて、構想されていった作品なのでしょうか。
町田 ふくみ笑いという言葉の響きがサウンドとして聞こえてきたというのがありました。響きだけでなく意味の上でも奇妙な感じの言葉ですよね。後ろを振り向くと誰かがふくみ笑いをしている。気味の悪い状況です。そういう所を入り口にして書いていった作品です。
「権現の踊り子」も同じようにタイトルから入っていった作品です。最初は「根津の踊り子」として構想しました。根津神社(根津権現)にも取材で行きましたが、なにも取材しませんでした。立川談志師が境内にひとりぽつねんと立っていました。ファンなので声をかけようと思ったのですが、気後れして思ってやめました。

──ふくみ笑い的なるものに象徴される世間と個人、個人と個人の間の関係の歪みの描出が、この作品のテーマでしょうか。
町田 人間関係を描いてみたということです。人間同士が何かを伝えあう時の情報が断片的になっています。
 人とうまく連絡できなかったり、意志を伝えられなくなるとどんどん追い込まれていく。抑圧された気持ちが物質として外界に現れ、飽和点に達したとき、現実の空間に亀裂のようなノイズが走る。そういうことを想像して書いた作品です。

■町田版『水戸黄門』の世界──「逆水戸」

──「逆水戸」ですが、これもどう読めばいいのか。「さかさみと」「ぎゃくみと」のどちらでしょう。
町田 ぎゅくみと、です。

──町田さんはエッセイや対談等でテレビ時代劇について多く言及されていますし、現在、時代小説『パンク侍、斬られて候』を連載されています。テレビ時代劇と町田康という視点は、町田文学に対するアプローチの一つとして重要だと思います。
「逆水戸」は、『水戸黄門』のパロディという言い方だけでは表現しきれない部分を多く含んだ作品です。
町田 テレビ時代劇がなぜ好きなのかとよく訊かれます。たぶん落語好きから始まっているのだと思います。上方落語を聞いているうちはそうでもなかったのですが、江戸落語を聞き始めるうちに、江戸特有の情緒が好きになってきてテレビ時代劇の再放送を見るようになりました。
「逆水戸」が『水戸黄門』の単なるパロディではありません。『水戸黄門』を無化しても意味がないですから。みんなの中ですでに無化されているものをもう一度無化しても意味がない。『水戸黄門』は大好きですし、けちを付ける気はないんです。
──パロディというより、オマージュに近いわけですね。
町田 そうですね。オマージュです。

 なぜ今回の短編小説集にこの作品を入れたかというと、他の作品とあまり変わらない動機で書かれているからです。僕が書きたかったのは、『水戸黄門』的な場所での人間のふるまいについてです。勧善懲悪の物語を茶化す気持ちもありませんでした。もうちょっと立派な時代劇、たとえば映画化された時代劇だとまた違ってくるのかもしれませんが。『水戸黄門』という物語の枠組みの中での人間を、より現実に近い視点で書いてみました。
 この作品の感想としていちばん多かったのは、とにかく笑ったということですね。「群像」の担当編集者は笑いすぎて椅子から落ちたといっていました。電車の中で読むときなど、特に注意が必要かもしれません。僕にも経験がありますが、笑いというのは不意打ちで来ますから。