国際アンデルセン賞〈作家賞〉受賞第一作 ――『鹿の王』刊行記念 特別対談 上橋菜穂子×夏川草介

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公開日:2014/10/6

 今年3月、児童文学のノーベル賞といわれる国際アンデルセン賞〈作家賞〉を受賞。代表作のひとつ『精霊の守り人』の実写映像化も決定するなど、ビッグニュースが相次ぐ上橋菜穂子さんの3年ぶり、待望の長編『鹿の王』が上梓された。
 命の不思議を思わずにいられないこの新作の刊行を記念して『神様のカルテ』の著者であり、医師でもある夏川草介さんとの対談が実現! 生と死をめぐって、今、何を思うのか。おふたりの対話をお届けします。

上橋菜穂子、夏川草介対談

(右)上橋菜穂子
うえはし・なほこ●1962年東京都生まれ。川村学園女子大学特任教授。オーストラリアの先住民アボリジニを研究。89年『精霊の木』で作家デビュー。『精霊の守り人』で米国バチェルダー賞を受賞。『守り人』シリーズ、『獣の奏者』など著書多数。今年3月、児童文学のノーベル賞と言われる国際アンデルセン賞作家賞を受賞。
(左)夏川草介
なつかわ・そうすけ●1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒。長野県の病院にて地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同作は2010年本屋大賞第2位に。『神様のカルテ』シリーズは累計300万部突破のベストセラーになっている。

命をどうとらえるのか 免疫学が教えてくれたこと

夏川:『神様のカルテ』1巻の文庫では解説を書いていただいて、ありがとうございました。

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上橋:こちらこそ大好きな物語なので嬉しかったです。医者をやっている私のいとこも、夏川さんと同じ信州大学の医学部だったので、勝手にご縁を感じています。

夏川:僕は、上橋さんの『狐笛のかなた』がすごく好きなんです。新刊の『鹿の王』も命をどうとらえるか、重層的な生命観をファンタジー小説として読めるということに感動しました。

上橋:ありがとうございます。『鹿の王』はある動物に噛まれて感染する病が物語の発端であり、鍵になっているので、お医者様でもある夏川さんにそう言っていただけてホッとしました。

夏川:いや、すごく驚きました。感染症や免疫学について、かなり勉強されたのではないですか。

上橋:いえ、とてもとても。心配で、それこそ、その医者のいとこに医学監修を頼んだのですが、「覚悟して引き受けた。じゃあ、まずは基本的なところから」と何度も何度も細かくやりとりすることになりました。ただ私は医学の専門家ではないので、免疫の本を読むと単純にへえと驚くようなことがたくさんあったんですね。自分と自分じゃないものを区別する、免疫という存在そのものが、すごく面白くて。

夏川:そうですね。たとえば、がん細胞の中にも自分のふりをするがん細胞がいたり、あるいはアレルギーも、自分と自分じゃないものの境界線がうまくひけなくなっている状態です。でもなぜそんなことが起きるのかは、実はよくわかっていない。

上橋:『鹿の王』の主人公・ヴァンも死に至る感染症からなぜか生き残った男です。調べていくなかで印象的だったのが、感染症専門のお医者さんが「かかる人とかからない人がいる、あるいはかかっても治る人と治らない人がいる。どうしてなのか、正直いまだにわからない」とおっしゃっていたことだったんです。

夏川:僕は大学院にいた時期があったのですが、その時に研究したのがまさにそのことでした。C型肝炎の人がインターフェロン治療をやりますが、同じ年齢、ほぼ同じ身体状態で同じ治療をしても、4割は治って6割は治らない。それはなぜかというのが研究テーマでした。同じ条件でも、なぜ人によって反応が違うのか。実際、本当にわからないんですよ。

体の中に、自分の知らないもうひとつの世界がある

上橋:この小説の着想が生まれたそもそものきっかけは、フランク・ライアンの『破壊する創造者 ウイルスがヒトを進化させた』を読んだことでした。ウィルスというのは、ほかの生き物と共生しないと生きていけないものですよね。だとしたら相手を生かしたほうが自分も長生きできると思うのに、実際は宿主を破壊するウィルスが多いのはなぜだろうと。人間社会においても、ともに生きていくほうがお互い幸せになれるはずなのに、なぜ争うのかということがたくさんありますよね。私は人類学をやっているので、この世界で起こっていることと体の内側の世界で起こっていることは、実は似ているのかもしれないと思ったことが、この小説の出発点になりました。

夏川:確かに感染症というのは不思議で、ウィルスは生き延びるために感染したのに、その宿主を殺してしまう。感染症の授業でよく言われたのは、結局地球を食いつぶしている人間と同じような存在が、宿主を食いつぶすウィルスじゃないかと。

上橋:本当に。それに人は、自分の体なのに、そこで何が起こっているのかを知ることすらできない。それを知るためには何らかの装置を使わないとわからないし、たとえ自分の心が「生きたい」と思ったとしても、体のほうがいうことをきいてくれないというこの理不尽さ。それって、やっぱりすごく不思議なことだなと。

夏川:そうやって考えていくとすべてはいくつもの箱庭のように重なって、スケールが違うだけで同じことが行われている。『鹿の王』の中でも、命というのはひとつの森、ひとつの国のようなものだと書かれていて、そうした命のとらえ方は、自分にとっても非常にしっくりくるものを感じましたね。

上橋:わあ、本当ですか。

夏川:はい。みんな、自分の命は自分のものだという感覚があるけれど、細かく見れば見るほど全然そうではない。自分の体の中にいろんな生き物がいて、時にはそいつがいうことをきかなくて具合が悪くなってしまう。

上橋:私は子どもの頃からちょっとでも無理をすると、すぐに具合の悪くなる体を持っていまして。心ではなく体の側から命をとらえてみたいと思ったのは、そういう原体験があるからなのかもしれません。

体という視点から命を見る

上橋:子どもの頃からずっと疑問だったんです。人間以外の動物は生きて死んでいくことをどう思っているか、そんなことを考えるのは人間だけなのだろうかって。夏川さんはそう思ったことはありませんか。

夏川:確かに人間というのは特異な特性を持っていますよね。

上橋:ヴァンは、感染症にかかって以来、意識と体が〈裏返る〉という体験をするようになります。普段は人って意識が主体だと思って生きているけれど、体が主体になったらどんな世界が見えるのか。意識が遠ざかるというのは、限りなく獣に近づくことじゃないかって。そこをリアリズムではなくファンタジーの手法で描いてみたくなって。

夏川:〈裏返る〉というこの小説の仕掛けは、意識と肉体、人間がほかの生物にはない、二面性を持っているということでもあると思いました。

上橋:命って、意識ではなく体から見ると、まったく違うものに見えるんじゃないかって。エリシアクロロティカというウミウシがいるんですが、生まれた時はふわふわ動いているのに、藻にくっついて葉緑素を吸収すると口が消えて、光合成で暮らすようになるんです。まるで植物みたいに変化した後、卵を産むと一斉に病を発症して死ぬ。小説の中で〈光る葉っぱ〉として登場する生き物、あれはエリシアクロロティカのことで、この世に実在するんですよ。サケが遡上して卵を産むと死んでいくことはよく知られていますが、あれも免疫力が低下して病気になるそうで、人の生き死にも体に最初からプログラムされているのかもしれない。女性は更年期になると体の変化でそれを実感するところがあるんですね。

夏川:上橋さんがおっしゃることは、医療の現場でも常々思うことです。もう助からないとわかっている患者さんに対して、医者ができることって非常に限られている。『神様のカルテ』というタイトルは、患者さんそれぞれに神様の書いたカルテがすでにあって、医者はそれをひたすらなぞっているだけなんだという、僕の中である意味、神様に対する嫌味でもあるんです。最初から決まっているのなら、何のために医者がいるんだと。

上橋:そうだったんですね。

夏川:ともすれば無力感に苛まれそうになる現場で、どうやったら前向きになれるかというのを考えるんですが、そういう時に「体はそういう道を体自身で歩いている」と考えると、なんとなく前向きになれるんです。なぜかはわからないですけど。

上橋:なるほど……。たとえ治ったとしても、人は皆、いずれ死んでいく。命とはそういうものだと、それを前提に考えることが、あるいはひとつの希望になりうる。

夏川:僕が読みながら一番恐れていたのは、感染症を治して終わりみたいな結末だったらどうしようということでした。

上橋:海外のパンデミックものだと、必ず治療法が見つかりますものね。あれはあれでカタルシスがあって気持ちがいいけれど、私が描きたいことはそこにはなかったんでしょうね、きっと。

命はいずれ死ぬ その理不尽さをどう受け入れるか

上橋:ヴァンがこの病を生きる男とすれば、この小説にはもうひとり、医師としてこの病と向き合う男・ホッサルが登場します。この小説でホッサルが行うオタワル医療をどう描くのかは非常に難しいところでした。

夏川:僕は医者になってもう10年以上になるのですが、ホッサルを見ていると5年目くらいの自分を思い出します。若い頃はやっぱりできることは全部やろうとするんですね。今でもよく憶えていることがあって、末期のがん患者はだんだん食べられなくなるので、頑張って点滴で栄養補給するんですが、1日に必要なカロリーを一生懸命計算して2リットル点滴すると全身がむくんでしまうんです。しかもそこまでやっても案外すぐに亡くなってしまう。でもある時、点滴を1日500ccにしたら、カロリーとしては50キロカロリーしかないので全然足りないんだけれど2カ月くらい穏やかに過ごすことができた。それ以来、治療をむしろ減らすようにしたら、上の先生が「やっとお前も医者になったか」って。それを境に、たぶん僕はホッサルではなくなっていたんでしょうね。

上橋:うわあ、それは胸に響くお話ですね。人の体が神様にカルテをもらって生まれてきたのだとしたら、たどる道筋は決まっている。でもそれで納得するかどうかはまた別のことですよね。

夏川:別ですね。

上橋:その理不尽さをどう納得していくのかというのを古今東西、いろんな人が考え続けてきた。病とともに生きる人もいれば、最初からこういうものだと受け入れて後生を考えましょうという人もいるだろうし、あるいは諦めきれないからきっと何かがあるはずだと思う人もいるだろう、結論はきっとひとつではない。この小説では、そういういろんな人たちを描きたかったんです。

夏川:亡くなるという選択肢でいいんだというお医者さんも出てきて、あれは僕の中ではすごくリアリティがありましたね。いくら手を尽くしても助からない患者さんに対しては、こんな治療法がある、こんな可能性がある、だから一緒に頑張ろうというだけでは、かえって不幸になる場合がある。落としどころをどこに持っていくかということが大事になってくるんです。

上橋:人によって落としどころが違うということなんですね。

夏川:ええ。患者さんが「ありがとう」と言って亡くなっても、家族から「あなたは最低の医者だ」と言われたこともあります。いくら本人の希望でも、遺された家族があとで不幸になったのでは意味がない。

上橋:人の生き死にというのはひとりのものじゃないから……。感染症というのは本当にいろんなものを見せてくれますね。人間というものが生物として他者と関わりあいながら生きているということもすごくよく見えてくる。森鷗外の『カズイスチカ』という小説をご存じですか。

夏川:読んだことはありますが、すごくマイナーな小説ですよね。

上橋:ええ。東京の最新の医療を学んできた息子は、田舎の町医者の父親を最初は馬鹿にしているのだけど、だんだん父親の生き方、考え方が見えてくるという話で、『鹿の王』を書いた時、あの小説のことが心のどこかに残っていた気がするんです。実は祭司医のエピソ―ドは最後の最後で付け加えたものなんです。科学的な視点で医療を考えるホッサルたちとは別の視点で人の生き死にをとらえている、そういう存在を書き加えて、初めてこの小説をようやく最後まで描き通すことができたんです。