「死刑になりたい」と供述する殺人犯と、事件を追う記者。徐々に明らかになる真相に息を呑む。迫真の社会派サスペンス、岩井圭也『汽水域』【書評】
PR 公開日:2025/2/19

河川から流れてきた淡水と海水が混じり合ったエリア、汽水域。そのエリアに生息する生物は、塩分濃度が異なる両水域の狭間で、バランスを取りながら暮らしている。僕は、バランスを取りながら生きていくという点においては、人生も似ているような気がするのだ。
私たちは日々、物事の善と悪の狭間に立ち、時には善、時には悪にその身を委ね揺蕩っている。ただ人によっては、抗うことすらできない力によって、善悪のバランスが崩れてしまうことがある。本稿で紹介する書籍『汽水域』(岩井圭也/双葉社)は、そんな抗いようのない力に巻き込まれた人々の物語だ。
本書の舞台は、東京都江東区亀戸。ある日、ここで無差別殺傷事件が発生した。3名が死亡、4名が負傷という凄惨な事件の犯人は、深瀬礼司35歳。彼は取り調べで「死刑になりたかった」と供述している。一般的に殺人事件は、被害者が3人以上、かつ被告の責任能力に問題がない場合、極刑が言い渡されることとなっている。深瀬はそのことを知っていて、犯行に及んだのだろう。
そんな痛ましい事件を追うのが、フリー記者の安田賢太郎だ。安田は、事件ものとなれば、真実が明らかになるその日まで追及しようとする熱い性格の持ち主であり、出版社も彼の熱意を買っている。今回の事件も、深瀬と関わりのある人物に取材し、深瀬礼司の人物像から、事件が起こってしまった要因を明らかにしていく。
勘違いしないでほしいのは、安田は決してこの事件を中途半端に扱い、うまい飯のタネにしようとしているのではないということだ。彼の根底にあるのは、この事件が起こった要因・真実を、被害者・加害者のどちらにも寄らない“中立な立場”で明らかにすること。そして、このような過ちが繰り返されることを防ぎたいという思いだ。
しかし、彼の思いとは裏腹に、事は負のスパイラルへと導かれていく。事件発生から数カ月が経った頃、札幌で深瀬の事件と同じような無差別殺傷事件が発生してしまったのだ。犯人は現行犯逮捕されたが、後の取り調べで「安田の書いた記事に勇気をもらった」と供述したという。その言葉に、戸惑う安田。もちろん中立な立場で執筆した。しかし、結果として、記事は模倣犯の背中を押してしまった。正直、こればかりは受け手の解釈次第でどうにでもなってしまうから仕方ないのかもしれないが……世間からは記者失格・殺人幇助の烙印を押され、誹謗中傷の嵐に見舞われてしまう。抗えない力によって、保っていたバランスが崩されてしまった安田に待っている結末とは。
また本書では、もう1つ注目しながら読んでほしい部分がある。安田の深瀬に対する異様なまでの共感性だ。事件現場の凄惨さ、「ただ死刑にしてほしかったから」という犯行動機だけに焦点をあてると、深瀬はいわゆる凶悪犯罪者に位置づけられる。しかし安田は、取材を進めるうちに深瀬=凶悪犯罪者という繋がりを見つけられなくなっていくのだ。むしろ、深瀬の過去を知るほど、自身の過去と重ねて共感する部分すら出てくる。中立の立場を保っていたにもかかわらずだ。
なぜ安田は、深瀬に共感してしまうのか。安田の過去に何があったのか。その真相は、本書全般を通して少しずつ明らかになっていくのだが、読了後に僕が感じたのは「もしかしたら自分も……」という恐怖。読めば読むほど、いまの自分がどれだけ幸せか、その幸せは決して当たり前ではないとわからせてくれる一冊である。
文=トヤカン