sumika片岡健太のエッセイ連載「あくびの合唱」/ 第10回『人間味3.0』

文芸・カルチャー

更新日:2025/4/1

気付けてよかったのか。
気付かなければよかったのか。
正解のない問いは数えきれない。

僕は焼き鳥のハツが好きだ。
新幹線に乗る前に駅の惣菜屋さんで購入し、目の前にあるハツをニヤニヤしながら見つめている。ハツは鳥の心臓にあたる部位。昔から好んで食べているのだが、今日はなぜか「鳥 心臓 何個」と検索してしまった。

当たり前だが、鳥の心臓は一個。一串に6つ刺さっているこのハツは、鳥6羽分の心臓ということだ。ショーケースの中で照らされていた、購入前のハツを思い出す。隣のは小さいのが8つくらい付いていた気もするし、逆隣のものは大きいのが5つくらいだった気もする。
つまりハツは、「鳥何羽分の心臓か?」という基準ではなく「一串分の大きさが確保されたら合格」ということなのだろう。
一本ではなく、ひとつひとつ。ゆっくり噛み締めながら食べていこう。ありがとう、鳥さん。

お次は、かつての恋人の口癖。

「圧倒的に賛成します」

想像を上回る同意を示すときに、彼女はしばしばその表現を使った。前の文脈まではフランクでも、この言葉を使うときだけは敬語になるというルールで運用されていた。圧倒的に同意してくれているのが伝わってきて、僕は悪い気がしなかった。

僕は彼女の元カレを知っていた。友達ではないが知り合いではあるくらいの距離感。友達の友達。
ひょんなことからみんなで酒を飲むことに。その場の流れで、全員で竹酒を頼むことになった。すると2つ隣に座っていた彼が、ボソッと「圧倒的に賛成します」と呟いた。先ほどまでバカ話をしていたフランクな流れからの急な敬語。全員から聞き流されたであろうボリュームの発言が、僕の脳内で猛々しく響き渡った。

ふと頭上を見上げると、換気しきれずに溜まった熱気が天井で陽炎を作っていた。
人間は、出会った人からさまざまな成分を摂取しながら生きている。大好きな彼女の数%が、目の前の彼の数%によってできている。そんな変え難い事実を目の前にして、僕の心の数%が萎えたことを思い出した。
今振り返っても若干心が軋んだので、早々に次の記憶にダイブすることにする。

僕は小学1年から9年間剣道を習っていた。
その道場の名誉師範は、僕のことをずっと「月岡君」と呼んでいた。実際に剣道を教えてくれる先生は、僕を片岡だと理解してくれていたし、名誉師範と会話する機会はさして多くなかったので、言い間違いを正さないまま9年間過ごした。

剣道を辞めてから数年後。
名誉師範が病に伏せているという情報を耳にし、道場仲間とお見舞いに行くことになった。病室のドアを開けると、痩せこけた師範が笑顔を作って出迎えてくれた。
「おひさしぶりです」
「おお、みんな大きくなったな」
久しぶりの再会に僕たちは体温を上げ合った。
9年分の昔話に花が咲く。見舞いに持ってきたフルーツゼリーを師範が食べながら、僕に話しかける。

「月岡君は最近どうなんだ?」
空気が一瞬だけ澱んだ後に、友達が「片岡です!月岡じゃないですよ!」と屈託のない笑みを浮かべながら、言葉を返す。
「片岡……」と言ったのちに、師範の口角が下がっていくのを僕は見逃さなかった。

その半年後、師範はこの世を去った。

師範は呼び間違いに気付けてよかったのか。気付かないほうがよかったのか。
もう聞く術はない。

ここ最近“正解”というものに対して、まったく興味が湧かなくなった。AIの進化を身に沁みて感じているので、生産性や効率だけを考えた正解はテクノロジーに任せるのが最適解だと、本格的に観念したからなのかもしれない。最適化された作業的なコミュニケーションが増えれば増えるほど、生の実感が希薄になっていく。

人は一人では傷つけない。誰かや何かの生と等身大で向き合って初めて分かることが、あまりにもたくさんある。
正解のない問いを考えている時間が幸せだし苦痛だ。“人間やっているな”という感じがする。
自動的に正解に誘導されてしまう時代だからこそ、正解のない問題に自ら足を突っ込んでいって、ウンウン唸りながら生きていきたい。そんな春。

撮影=片岡健太

編集=伊藤甲介(KADOKAWA)

<第11回に続く>

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片岡健太
神奈川県川崎市出身。sumikaのボーカル&ギターで、楽曲の作詞作曲を担当。キャッチーなメロディーと、人々に寄り添った歌詞が多くの共感を呼んでいる。これまで4枚のフルアルバムをはじめ、精力的に楽曲をリリース。ライブでは、人気フェスに数多く出演するほか、自身のツアーでは日本武道館、横浜アリーナ、大阪城ホールなどの公演を完売。2023年には、バンド史上最大規模の横浜スタジアムワンマン公演を成功に収めるなど、常に進化し続けるバンド。