8歳下の女の子に惹かれ、別れた元恋人が失踪。そして関係者たちは“ある土地”へと導かれる——。直木賞作家・白石一文の長編小説『つくみの記憶』【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2025/5/21

つくみの記憶白石一文/双葉社

 出会った瞬間から、懐古の念に駆られる相手が稀にいる。はじめて会ったはずなのに、やけに懐かしいような妙な心地がする相手は、その後の人生において忘れ得ぬ人である場合が多い。白石一文氏による長編小説『つくみの記憶』(双葉社)は、そんな不思議な出会いから連鎖的に記憶が絡み合う物語である。

 建設会社の営業部で多忙な仕事に追われる松谷遼平は、幼馴染できょうだいのように育った板倉友莉と恋仲であった。その関係は二十数年にも及ぶもので、友莉が高校生になった頃から男女の仲になり、以降は連れ添うように長い年月を過ごしてきた。だが、その関係が突如一変する。その原因となったのは、遼平の会社にアルバイトとして入社した隠善つくみの存在だった。つくみと出会った際、遼平は奇妙な感覚に襲われる。

――この人は、俺に会いに来たんじゃないかな……。

 ともすればストーカーと紙一重かのような思い込みであったが、実際につくみは遼平の懐にするりと潜り込み、家族同様の付き合いだった友莉との関係を破綻に追い込む。そのスピード感は呆気に取られるほどで、理性や道徳心を置き去りにする形で、遼平とつくみは入籍して夫婦となった。その事実にショックを受けて深い悲しみに暮れた友莉が失踪したことに端を発し、遼平の日常は奇妙に捻れていく。

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 本書の登場人物たちは、みな一様に人間の醜い面を携えている。善良であろうとするものの、内面に潜む業を隠しきれない不完全さにむしろ親近感を抱く。また、人同士の縁が不思議な螺旋を生んでいく様も興味深い。遼平の弟である耕平、耕平の彼女の珠子、耕平と深い付き合いのタケル、タケルのパートナーである末次新菜。一見するとそれぞれ独立している出会いが、物語を読み進めるごとに、ある土地へと導かれていく。

 本書に登場するのは、人間だけではない。遼平の命の恩人として、「シロ」という名の猫が繰り返し登場する。遼平がまだ幼い時分、高熱を出して命の危機に瀕したことがあった。その際、遼平に懐いていたシロが井戸に身を投げた。シロが命を落とした井戸の水で冷やしたスイカの汁を飲み、遼平は奇跡的に回復した。遼平を助けるため、シロは自らの命を差し出した――当時の大人たちは、そのような見方でシロの死を捉え、手厚く葬った。

 どういうわけか、遼平はつくみの存在をシロとたびたび重ね合わせる。シロは猫で、つくみは人間だ。現実的に考えれば、そんなことはあり得ない。そう頭では理解しつつも、遼平はどこかで“生まれ変わり”の存在を想起する。その感覚は奇妙でありながらやけに鮮明で、遼平とつくみの性急に過ぎる交わりにも符合する。

 本書は、いわゆる人間関係のもつれを赤裸々に描いただけの物語ではない。現実とお伽噺の境目、正しさとだらしなさの混在、色でたとえるならグレーに近い部分に軸足を置き、人間の驕りを詳らかにする。

人間は大威張りで、自分たちがこの世界の支配者だと思い込んでいるけどね、ほんとうはそんなことはない。この世界を操っているのは人間よりもずっと数の多い動物たちの方なんだ。

 ある人物が口にしたこの台詞が、やけに脳裏に焼き付いている。のちに登場する遼平の祖父の語りとも重なり、日頃いかに自分たちが「人間中心」で物事を捉えているかを突きつけられた。

 不可思議で、それでいて現実的な本書が奏でる旋律は、自然豊かな土地に宿る魂に帰着する。物語は、いつも私たちを思いがけない場所へと連れていってくれるものだが、本書で味わう旅の余韻は、なかなかに忘れがたい。それぞれの人物の出自や記憶が、九州のとある地域に輻輳する描写は、時折背筋が寒くなるような感覚を覚える。同時に、人の記憶というものはこのような螺旋を描くことがままあるのだと妙に納得した。

 タイトルにある「記憶」の正体、遼平が辿る結末を含めて、本書は最後まで謎が点在する。一様にだらしなく、それゆえに愛しい人々が織りなす物語は、面妖な猫のごとく掴みどころがない。その不思議な読み心地を堪能した先で、胸に残ったのは生き物の生と死であった。自力では選びようのない命の輪廻は、今も世界中でぐるぐると輪を描いている。その壮大な輪に強制的に組み込まれた私たちは、いかなる場合でも生をまっとうするしかない。そのことを思い知らされるのは、決して悪い気分ではなかった。

 誰もがみな、この世界を足掻くようにして生きている。美しくなくてもいい。常に正しくいなくてもかまわない。そんな赦しが内在する本書は、しっとりとした猫の毛並みのように、読み手の心にしなやかに吸い付くだろう。

文=碧月はる

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