“今から十年くらいあとの話”なのに懐かしい。芥川賞作家・柴崎友香が描く、少し異質な探偵のお話【書評】
PR 公開日:2025/6/28

この一冊『帰れない探偵』(講談社)に収められた7つの章はきまって“今から十年くらいあとの話”という言葉から始まる。舞台が近未来であることは間違いない。なのに世界のいろいろな街を訪れ、いろいろな人に話を聞いていく探偵の「わたし」から繋がっていくのは、《こんなことが自分にもあったかも、近くで見ていたかも》という記憶の底に堆積しているもの。柴崎友香さんの小説からはいつもそうした懐かしさにも似たものを感じてしまう。それは「私の書く小説の世界は嘘でもないし、本当というわけでもない。そのとき、ありえたかもしれない物語、もうひとつの可能性」(『ダ・ヴィンチ』2021年8月号より)という著者自身が語っているところにもあるのだろう。
10年前、生まれ育った街を離れ、世界探偵委員会連盟の探偵学校に入って基礎的な知識や技術を学び、その後インターンをしながら専修コースで訓練を受けた「わたし」は、柴崎さんの作品のなかでは少し珍しいフィクショナルな設定の主人公。ストーリーからは探偵の任務を的確に、淡々と、ときに毅然と務める人の姿が映し出されていく。誰かの話に真摯に耳を傾け、ときに距離が近くなることはあるものの、間に澄んだ小川があるような、柴崎さんがこれまでも多く書いてきた、塩梅の良い人と人との関係が、相手とは一線を画さなければならない“探偵”という職の人を通じ、より明確に描かれていく。
探偵事務所を構えようとした「急な坂の街」で、「わたし」は突然、探偵事務所兼自分の部屋に帰れなくなる。そして祖父のメモが挟まった本を探す人、急激な発展を遂げてきたこの街で以前、撮られた写真の場所を見つけたい人……。まるで過去を探していくような依頼のなか、自身の記憶の糸も手繰られていく。“見えないものは、忘れてしまうでしょう?”“確かに見ていたはずなのに、ほんとうにそうだったかさえ、もうわからなくなっているのよ”――そんな言葉をこぼした依頼者のいる街をあとに、「わたし」はまた別の場所へ向かっていく。
30年前に起きた連続殺人事件の被害者女性の両親が、娘の元恋人から思い出話を聞きたいという依頼を受ける、雨ばかりの日が続く「傘をささない街で」。自分のルーツを知りたい人の依頼に応える「夜にならない夏の街で」。産業スパイの動向観察を請け負う「太陽と砂の街で」……。調査をしていくなか、「わたし」が遭遇し、巻き込まれていく「事件」。その背景には政治的動乱や気候変動、AIやテクノロジーの暴走、陰謀論などのテーマが見え隠れする。そこから感じとってしまう不穏さは、《これは小説のなかのことだから》と片付けることができない。SNSに溢れる言葉、じわじわ変わってきた街、自分を囲む風景、これからどうなってしまうんだろう? と時おり立ち止まってしまうような日々の暮らし……。漠然とした不安にとらわれ、どこか落ち着かない「いま」の世界に抱く実感が流れ込んでくる。
著者初の「探偵小説」。けれどよく考えてみると、柴崎さんの小説は、探偵こそ出てこなかったものの、これまでも《探偵小説》だった気がする。たとえば『続きと始まり』の登場人物たちも、読者にとっては“探偵”だった。さまざまな出来事や状態が積み重なっていくなか、自分が置きざりにしてしまっているものを探り、今の出来事や状態は、何かの続きであることを示していく。ついに“探偵”という仕事を持つ人が小説のなかに現れ、激動の世界を駆け巡っていく本作からは、時間や世界を俯瞰しながら、「いま」を渡っていくための糧となるものが見えてくる。
文=河村道子