sumika片岡健太のエッセイ連載「あくびの合唱」/ 第13回『ミームとジーンとシルバード』
公開日:2025/6/30
水は感情を記憶すると聞いたことがある。
もしそうであれば、空から降ってくる雨にも何かしらの感情が宿っていると考えるのが自然だ。
地上で人間のさまざまな感情を吸った水分が、太陽の熱で蒸発し、上空で冷やされて水滴となる。それはやがて雲に変わり、地上で生活する人間のもとへと帰ってくるのである。
僕には、濡れて悲しい気持ちになる雨と、濡れても晴れやかになる雨がある。
前者は誰かの悲しみや苦しみを記憶した雨で、後者は誰かの嬉しさや優しさを記憶した雨。
自分自身の精神状態によって感じ方が変わる部分もあるが、雨が降るまで絶好調だったのに、雨に濡れた瞬間に悲しい気持ちになってしまうことがある。そんな時は、「これは悲しい記憶を吸った雨に当たったからだ」と思って勝手に納得している。悲しいことがあって流した涙も、野外フェスで楽しい気持ちで盛り上がった熱気も、蒸発した先では等しく“水”と認識されて雨に変わるのだ。
冒頭の「水が感情を記憶する」説が本当なのだとしたら、雨粒一粒ずつが喜怒哀楽のガチャであり、当たってみるまで自分がどう感じるかは分からない。
雨が降る確率は天気予報で調べることができるが、その雨の質がどんなものなのかは予測もできない。まるでロシアンルーレットのようだ。
しかし、悲しい気持ちに暮れていた時に、雨に癒された経験もある。
ざあざあと降り続く雨に濡れながら「自分の代わりに泣いてくれてありがとう」と思ったことがある。しとしとと降る雨に濡れながら「一人にしないで、包んでくれてありがとう」と思ったこともある。雨を媒介しながら、会ったことのない誰かの感情に救われたり襲われたりするのは、結構面白い現象だなと思っている。
“人間同士で回し合っているもの”という点では、お金もそうかもしれない。
お金を手にした瞬間、良い気持ちと、嫌な気持ちになるものがある。
「なんとなくこのお金を早く使ったほうがいい気がする」と謎の直感が働いた挙句、結局ムダ遣いになってしまうようなお金もあれば、「これで親にプレゼントを買おう」と前向きな気持ちになるお金もある。
資本主義社会の中では、お金がなければ生きていけない。十人十色の価値観でお金を愛したり、恨んだりもする。「お金は水物」という言葉があるように、お金と水は似ている。「感情が宿る」という点でもお金と水(雨)は似ているのではないだろうか。しかも、雨よりもっと血生臭い感情が染み込んでいる場合が多いように感じる。レジで優等生のお金を渡したのに、お釣りでヤンキーのようなお金が返ってくると、「やっぱりうちの子返してください」という気持ちになる。まあそれでも国民全員でババ抜きをやっているような感覚で、感情を回し合うのはゲームとしては結構楽しいことなのかもしれない。
深夜2時36分。キーボードでパチパチと文字を打ち込みながら、ふと作業用デスクに置いてある鍵盤と目が合った。ひょっとしたら音楽も“人間同士で回し合っているもの”なのかもしれない。 嬉しさを抑えきれず、誰かが思わず叩いた拍手。憤りが抑えきれない、力いっぱいの地団駄。悲しいことがあっても、うっかり鳴ってしまった腹の音。
感情と音は一緒に生きてきたはずだ。
表現の解像度を上げるためにどんどん進化して、やがてそれは歌になり、楽器を使って音を出し、合奏してハーモニーになった。それを聞いた誰かが、次の誰かに渡して、継がれてきた音が今の自分の音楽に繋がっている。つまり、今の僕が作っている音楽は、自分がゼロから生み出したものではなく、過去の人類から受け継がれてきた感情の記憶なのではないだろうか。
音を並べる技術ではなく、感情を伝える音。雨やお金と違って物質ではないが、遠く離れた誰かから回ってきた記憶。そう考えると、途端にワクワクしてくる。僕が今鳴らしたDメジャーセブンの音は、誰のどんな感情を伝えるために生まれたのか、初めて鳴らした人に聞いてみたくなる。感情と音がイコールになった瞬間の喜びを想像して、何度もコードを鳴らしてみる。
しとしとと降る梅雨の夜更け。途方もなく遠い場所に思いを馳せながら、今夜が溶けていく。

編集=伊藤甲介(KADOKAWA)
<第2回に続く>神奈川県川崎市出身。sumikaのボーカル&ギターで、楽曲の作詞作曲を担当。キャッチーなメロディーと、人々に寄り添った歌詞が多くの共感を呼んでいる。これまで4枚のフルアルバムをはじめ、精力的に楽曲をリリース。ライブでは、人気フェスに数多く出演するほか、自身のツアーでは日本武道館、横浜アリーナ、大阪城ホールなどの公演を完売。2023年には、バンド史上最大規模の横浜スタジアムワンマン公演を成功に収めるなど、常に進化し続けるバンド。