偽装修理に投資詐欺、SNSでの攻撃。“現代の闇”に巻き込まれた8人の悲劇が交錯する群像劇——直木賞候補・逢坂冬馬『ブレイクショットの軌跡』【書評】
公開日:2025/7/16

逢坂冬馬氏の最新作『ブレイクショットの軌跡』(早川書房)は、独ソ戦を描いたデビュー作『同志少女よ、敵を撃て』、ナチ政権下の少年少女の物語『歌われなかった海賊へ』の過去2作の歴史ものからは趣を新たにした、現代が舞台の群像劇である。
日常に潜む危うさと真偽を問わない情報の暴力性といったトピックを盛り込み、国の基幹産業でもある自動車という存在を通して描かれる人々の階層は様々だ。ファンドグループの重役、町の板金工場の職人、二人のサッカー少年、自動車工場の期間工、資産設計のアドバイスをする人気YouTuber、不動産会社の営業マン、そしてアフリカの武装勢力。彼らのほとんどは善良であり、未来を思い描くことができるほどには前向きで聡明だ。しかし彼らは予期せぬ他者からの干渉によって日常の平穏から弾かれて人生が暗転していく。ここであまり多くは語れないが、彼らが巻き込まれるトラブルや犯罪のディテールの緻密さは、著者本人が実際に関わっていたのではないかと思えるほど真に迫る。
また、ユニークなのは彼らの数奇な運命に姿を現すブレイクショットという名の日本車の存在である。一般的に自動車は大衆車から高級車までそれぞれが纏うステータスが注目され、自動車によって所有者の社会階層は視覚化される。作中のブレイクショットという車はミドルハイクラスに位置される車であり、富裕層にとってそれほど特別ではない車ながらも一般の人にとってはステータスになり得るクラス、という絶妙な設定。だからこそ様々な階層である登場人物たちがこの車との関わりを持つことになり物語が連なっていく。
タイトルにもなっている“ブレイクショット”とは、ビリヤードにおける手玉の白球を打つ第一打を指す名前で、作中にも登場するナインボールのルールでは第一打によって散った的球の配置はゲームの展開を大きく左右する。本書ではホワイトハウスと愛称でも呼ばれる車「ブレイクショット」は、ビリヤードの白い手球のように、多くの人々の人生に大小問わず影響を及ぼしていく。
“台の上のすべてを把握しようというのは傲慢だし、自分の打つボールが波及するという意識をもたない人間には、ゲームに参加する資格はない。”
作中、ビリヤードについて語られるこの言葉はとても印象的だ。我々はブレイクショットによって弾かれた的球たちのように情報が瞬く間に拡がり、情報の行き先はプレイヤーの意志とは無関係に拡がっていく世界に生きている。本書はまさにそうした互いに影響を及ぼす不確定な要素の世界で苦悩し抗う人々を描いている。
著者の逢坂冬馬氏はこれまでの2作品において歴史という過去を描いてきた。本書の言葉を借りるなら、すでに既知である過去を描くことはブレイクショットによって弾かれた的球の配置のように予め大局を把握した物語であっただろう。それを傲慢と著者が思ったかは知る由もないが、しかし現実世界がこれからどのように動いていくかは確かではない現代を描いた本作は、著者の新境地であることは間違いない。
文=すずきたけし