「これが最後かも」原爆投下5時間前の朝。工場へ向かう娘に母親がかけた言葉/わたくし96歳が語る 16歳の夏

文芸・カルチャー

公開日:2025/8/7

※本記事には実際に体験した戦時中の描写が含まれます。ご了承の上お読みください。

 戦後80年を迎え、戦争体験者や被爆体験者の方々から直接お話を聞ける機会は年々貴重になっています。

 紹介するのは、8.5万人のフォロワーを持つXアカウント「わたくし96歳(@Iam90yearsold)」で日々の活動を発信している森田富美子さんが、戦争の記憶を語った書籍『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』。

 1945年8月9日、長崎で被爆した森田さんは当時16歳。戦後の人生において語ることを避けていた「あの日」の記憶を1冊にまとめました。

 本書は、「カタリベ」になろうと決心した森田さんと、長女の京子さんが書き溜めていた「著者の記憶」をもとに完成させた、カタリベの記録です。

※本記事は『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』(森田富美子:語り、森田京子:聞き手・文/KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました

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 『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』<br>
『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』<br>(森田富美子:語り、森田京子:聞き手・文/KADOKAWA)

別れ

1945年8月9日6時(原爆投下5時間前)

 1945年夏、妹は女学校の1年生になり、弟たちは5年生、3年生、1年生になっていました。

 妹は私とは違う工場に通っていました。7月31日、そこが空襲でやられ、妹は機銃掃射にあったのです。仲間をなくし、命からがら逃げ帰ったものの、あまりの恐怖に、そのまま家から500メートルの横穴防空壕(駒場町住民用の大きな防空壕)に飛び込んだきり、中で震えたまま出てこなくなっていました。

 その日は晴れて、夏らしい青空が気持ちの良い朝でした。

 3年生の弟はいつものように勉強部屋にしていた客間に、1年生の弟は茶の間でおかあさんと一緒にいました。

 空襲警報が出る度に「くうしゅうけいほう」とメガホンで知らせながら近所を廻っていたおとうさんは、その日も朝から近所を廻っていました。そして、その日は「6日、広島に新型爆弾が落とされたから充分気をつけるように」と注意を呼びかけていたそうです。

 6時少し前、工場に行く支度をして玄関に行くと後ろから飛び出してきた5年生の弟が、履こうとした私の下駄を履いて飛び出して行きました。家は浦上川のすぐ近くで、ここに越してきてからというもの、弟はダクマ(川エビ)捕りに夢中でした。この日も友だちとダクマ捕りです。私はこれから工場なのに、わかっているはずなのに、遊びに履いていくなんて。そう思うと頭に来ました。履いていくものがない、腹が立ってどうしようもありません。すると、

「ほら、これを履いて行きなさい」

 振り向くとおかあさんが新しい下駄を玄関に置きました。赤い鼻緒の可愛い下駄でした。私は怒った顔のまま黙ってその下駄を履きました。その頃、靴は兵隊さん用になり、私たちは下駄を履いて工場に通わなければなりませんでした。しかし、その下駄すらヤミ市でもなかなか手に入らなくなっていたのでした。そうなることがわかっていて、おかあさんは私と妹のための下駄を取っておいたのでしょう。

「これっきりの別れになるかもしれないから、さあ機嫌をなおして、怒らないで行きなさい」

 穏やかな顔で言われ、なおのこと腹が立ちました。新しい下駄は前坪も鼻緒も固く、私の機嫌は悪くなるばかりです。

「そんなにプンプンしないで、これが最後かもしれないんだから」

 その言葉を背中で聞きながら、プンプンしたまま家を出ました。路地を真っ直ぐに行き、そっと振り向いてみました。おかあさんは門の前に立っていました。電車通りへの角を曲がる時、またそっと振り向いてみました。いつもは見送らないおかあさんが、まだそこにいました。そして小さく手を振りました。

 電車の停留場へ向かう途中「これっきりの別れ」「これが最後かも」と言ったおかあさんの言葉と手を振った姿が胸に迫ってきました。

<第2回に続く>

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