生き残ったのは妹だけ。原爆投下の翌日、家族の安否が明らかになる/わたくし96歳が語る 16歳の夏
公開日:2025/8/12
※本記事には実際に体験した戦時中の描写が含まれます。ご了承の上お読みください。
戦後80年を迎え、戦争体験者や被爆体験者の方々から直接お話を聞ける機会は年々貴重になっています。
紹介するのは、8.5万人のフォロワーを持つXアカウント「わたくし96歳(@Iam90yearsold)」で日々の活動を発信している森田富美子さんが、戦争の記憶を語った書籍『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』。
1945年8月9日、長崎で被爆した森田さんは当時16歳。戦後の人生において語ることを避けていた「あの日」の記憶を1冊にまとめました。
本書は、「カタリベ」になろうと決心した森田さんと、長女の京子さんが書き溜めていた「著者の記憶」をもとに完成させた、カタリベの記録です。
※本記事は『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』(森田富美子:語り、森田京子:聞き手・文/KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました

「みんな死んだ」
1945年8月10日9時(原爆投下から22時間)
横穴防空壕に着くと、誰に聞いたのか妹が飛び出してきました。
「みんな死んだ、みんな死んだ」
私にしがみつき、狂ったように起こったことを話し始めました。最初は何を言っているのかわからないほどでした。
妹の話はこうでした。
朝8時前に空襲警報がなり、近くの子供たちが横穴に避難して来ました。その中に弟3人もいました。30分ほどして空襲警報が解除されると、子供たちは一斉に外に飛び出しました。弟たちも飛び出していき、家に帰ろうとするので妹は必死で止めましたが、手を繋いで走って帰ってしまいました。横穴には、隣に住む5年生の女の子と、その子の幼い妹。5年生の女の子は年の離れたおねえさんの赤ちゃんをおぶっていました。ほんの数人の子供だけが残っている状態でした。
それから3時間ほど経った時、ピカッとまぶしい光が横穴の奥まで照らしました。その直後、爆音と共に凄まじい爆風が吹き込んだのです。残っていた子供たちは、みな吹き飛ばされ、壁に強く叩きつけられ、気を失い倒れました。妹も吹き飛ばされたのですが、ひとり気を失わず、その様子を見たのです。すぐに横穴を飛び出し、家に向かって走りました。
簗橋を渡ると、橋から3軒目にある2階建ての我が家は全て飛ばされ、なくなっているように見えました。近づくと門柱1本だけが残り、そこにメガホンを首から下げたおとうさんが寄りかかっていました。
床だけになった家には、玄関からすぐの廊下あたりに伏せたおかあさんの姿がありました。おかあさんの体を起こすと、きれいなままの1年生の弟の顔がありました。おかあさんは、弟を守ろうと覆い被さっていたのです。
門柱に寄りかかって立っているおとうさんを生きていると思った妹は「とうちゃん、早よう逃げよう」と声をかけました。が、まさに、その時「お嬢ちゃん、危ない!」と後ろから来た誰かに手をつかまれ、電車通りまで引っ張られるように走ったそうです。振り向くと、町を焼き尽くそうとする信じられないほどの火が浦上川を越えて迫っていました。助けてくれたのは男の人でした。
私は、最近になって、その人のことがとても気になっています。その人がどこから現れ、その後どこへ消えたのかわかりません。長崎原爆戦災誌によれば、駒場町の住人はひとりの女性を残して全員即死。その女性も3日後に亡くなったと記載されています。妹を助けてくれた男の人は、どうしてそこにいたのでしょう。神様だったのではないかという思いが日に日に強くなっています。
電車通りまで走った妹は、その後、火から逃げるように北に進み、浦上川にかかる大橋を渡って横穴に戻って来たそうです。
妹の話を聞いている間も、たくさんの負傷者が横穴を目指して来ました。ほとんどの人がベロリと剥けた皮膚を引きずっていました。剥けた頭の皮が顔に被さっている人や目が飛び出している人、体がちぎれ、ひどい火傷の体を引きずり、やっとの思いで辿り着くも倒れて亡くなる人。あまりに現実味のない光景でした。
隣の女の子は赤ちゃんをおぶったまま「かあちゃん、助けて」と泣き叫んでいました。女の子には医大生のおにいさんがいました。そのおにいさんが、友だちに支えられながら来るのが見えました。腰の骨が折れているようでした。女の子とおにいさんはお互いの顔を見て「助かった、助かった」と喜んでいました。しかし、それから3日後、おにいさんは「死にたくない、死にたくない」と言いながら亡くなったと聞きました。
<第7回に続く>