原爆で家も家族も失った姉妹。人の気配がない恐怖の中、叔母の家を目指し歩く/わたくし96歳が語る 16歳の夏

文芸・カルチャー

公開日:2025/8/13

※本記事には実際に体験した戦時中の描写が含まれます。ご了承の上お読みください。

 戦後80年を迎え、戦争体験者や被爆体験者の方々から直接お話を聞ける機会は年々貴重になっています。

 紹介するのは、8.5万人のフォロワーを持つXアカウント「わたくし96歳(@Iam90yearsold)」で日々の活動を発信している森田富美子さんが、戦争の記憶を語った書籍『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』。

 1945年8月9日、長崎で被爆した森田さんは当時16歳。戦後の人生において語ることを避けていた「あの日」の記憶を1冊にまとめました。

 本書は、「カタリベ」になろうと決心した森田さんと、長女の京子さんが書き溜めていた「著者の記憶」をもとに完成させた、カタリベの記録です。

※本記事は『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』(森田富美子:語り、森田京子:聞き手・文/KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました

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『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』<br>
『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』<br>(森田富美子:語り、森田京子:聞き手・文/KADOKAWA)

おばさんの家を目指して

1945年8月10日夕方 東小島到着

 生き残った子供たちに別れを告げ、私と妹は歩き出しました。戦時中は、誰もが左胸にスマートフォンの半分くらいの大きさの名札を縫い付けていました。私たちの名札には、住んでいた「駒場町」ではなく、「東小島」と書いてありました。そこは、おばさんの家の住所です。おとうさんは6人きょうだいの長男で、おばさんは上から4番目の長女でした。おとうさんとおかあさんの「いざという時は東小島へ行け」という声が聞こえた気がしました。両親が一番信頼していたのがおばさん夫婦だったのです。私たちは顔を見合わせ「東小島に行こう」と言い、歩き出しました。

 我が家は簗橋を渡ってすぐのところでしたが、橋は渡らず、浦上川沿いに南へと歩き始めました。数えきれない死体と負傷者の中をただ黙って歩きました。途中で稲佐橋を渡り、長崎駅まで来ました。ここまで3キロです。また南に歩きました。丸山、思案橋を通って、東小島の正覚寺を目指します。正覚寺からおばさんの家はすぐです。

 しかし、丸山あたりに来ると、死体がなくなり、負傷者もいなくなりました。それどころか、人ひとり、犬1匹、猫1匹いません。底知れない恐怖が襲ってきました。無人の町は言いようのない不気味さだけを漂わせています。私は心の中で「正覚寺、正覚寺、正覚寺を過ぎれば、おばさんがいる」そう呪文のように繰り返していました。

 同じ恐怖の中にいた妹がたまりかねて言いました。

「おばさんたち、おるやろか(いるだろうか)」

 それこそ私が必死で頭の中から振り払っている言葉でした。繋いだ手を強く握りしめました。そしてまた誰もいない町、誰もいない空っぽの家と家の間を歩いていきました。

 そして、ついに正覚寺が見えました。近くの家の中に人の気配を感じました。その気配は進むにつれ次第に増えていきます。「もうすぐ、あと少し」自分を勇気づけながら、また繋いだ手に力を込めました。おばさんの家に上がる細い石段の下に来ました。「ここを上がると」と、石段を見上げました。

 いた! 見上げた先におばさんが、おじさんが、そして心配して集まっていた近所の人たちがいたのです。歓声があがりました。皆が私たち2人を見て歓声をあげたのです。

「良かった、よう来た」

 おばさんとおじさんが泣いて喜んでくれました。

<第8回に続く>

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