『ガラスの仮面』姫川亜弓が持つ、舞台人としての才能と責任とは?/きみを愛ちゃん①

文芸・カルチャー

公開日:2025/9/2

きみを愛ちゃん』(最果タヒ/集英社)第1回【全6回】

 アニメやドラマに登場するキャラクターを高い熱量で愛し、生身の人以上に心を動かされことはないだろうか。本書は、中原中也賞や萩原朔太郎賞など数々の賞を受賞した詩人・最果タヒ氏が、さまざまなジャンルの32のキャラクターたちへ綴ったラブレターをまとめたもの。漫画から宝塚、アニメ、ドラマに童話まで、古今東西のキャラクターへの「愛」を磨き上げた、まるで宝石箱のようなエッセイ『きみを愛ちゃん』。その一部を抜粋してお届けします。

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『きみを愛ちゃん』
『きみを愛ちゃん』最果タヒ/集英社)

誰より私が私を信じている──『ガラスの仮面』姫川亜弓

 人が他者に天才であることを求めるのは残酷なことだと感じる。天才性を見出すこと自体が、他者の人生を物語として消費する第一歩であるのかもしれない。誰にも負けない天才を見ているのは心地がいい。その人の破竹の勢いを追うことは、絶景や美しい馬の走りを見るようなことに近い。そこに共感はなくて、ひたすら「人ではない」ものへの畏怖とそして軽視がある。

『ガラスの仮面』は、演技の才能に秀でた北島マヤの物語だ。天性の才で役を摑んでいくマヤと、対になるような姫川亜弓という舞台人が登場する。彼女は両親が大女優と映画監督で、親の七光りではなく自分の実力を認められるために努力を惜しまない人。マヤの才能を認め、彼女に勝つためにさらに努力を重ねていく。

 たまに、姫川亜弓がもっと鈍感だったら、どんな人生だったのだろうと思う。彼女は自分の才能がその才能のみで認められないことを不満に思い、七光りではなく自分の実力として全てが認められるようにとひた走る。「認められること」にこだわるのは、彼女が他者の声に多くさらされてきたからなのだろうか。それで削られてきたものを埋めるために、自分が欲しい声を求め走り出すしかなかったのか。彼女は、こんな状況でなかったら、芝居の世界をただ愛することができたのだろうか?

「北島マヤに勝って『紅天女』を演りたいのよ ママ そうでなければ自分が可哀相すぎる… もって生まれたあの子の恵まれた才能に自分のふりしぼる汗の力が勝ったとき わたしははじめて胸をはって自分の人生を生きられるのよ 姫川亜弓という1人の独立した女優として生きることができるのよ…」

 天才と呼ばれる陰で血の滲む努力、という構図は多くあるけれど、この「努力」の部分を見てほしいと願うのではなくて、姫川亜弓はいつも自分の実力として、天才であることを認められたがっているように見える。彼女の芝居を彼女の才能の証明として皆が受け取るならば、そこに裏打ちされた稽古の過酷さに思いを馳せてほしいとは願っていない。彼女は誰よりも芸能界の、「一人の人生を物語にしてしまうこと」「天才ともてはやしたがる人々の欲」に肯定的であるように思うし、そこに臆していない。たとえマヤのように直感で役を摑むことができなくても、そんな彼女と肩を並べるところまでパフォーマンスを持っていける自分が「天才」であることをよくわかっているように思う。いや、実際に天才であると確信しているわけではないのかもしれないが、それでもそう信じ抜く覚悟がある人なんだろう。私は彼女のその誇り高さが好きだ。どんなにマヤの才能に圧倒されようと、彼女は自分の才能を卑下しない。疑わない。努力をしているからこそ自分は認められるべきだ、と思っているわけでもないだろう(努力しても亜弓さんのようにはできない人が彼女の周りには多くいるはずだ)。彼女にとって、「姫川亜弓」は物語の最初からずっと「一人の独立した女優」であり、その誇りこそが彼女の武器なのではないかと思う。

 そして、本当は、親の七光りだと言う人間たちを見返すためではなく、自分自身のこの誇り高さに応えるために、彼女は努力を重ねるのではないか。自分が自分を親など関係なく才能のある女優だと思うからこそ、それに相応しい芝居を見せるために彼女は当たり前に努力をする。それは「七光りに苦しむタレント」ではなく、「舞台に立つ人」の誇りであり、そして仕事をする人間としての責任感やプロ意識からきている姿勢なのではないか。

 天才という「物語」に触れるとき、ひとつも苦労せずに傑作を生み出すのが「天才」だと、つい人は想像したがる。それこそ姫川亜弓がマヤに劣等感を抱くのは、マヤが自分のようにあがくことなく役の本質を摑んでいるからなのだ。でも、天才だろうが何かを生み出す行為はたいていが苦しく、苦しみが伴うからといって才能のなさがそれで証明されるわけじゃない。姫川亜弓の努力は才能を偽るためでも、他者の才能を技術で超えるためでもなく、自分の才能を100%その役に活かすためのもの。「芝居」に向き合う舞台人の純粋な姿勢だと思う。誰かを超えるためと言いながらもいつも、彼女は自分の芝居こそをじっと見つめている。

 私は、舞台人として本当に才能があるのはマヤではなく姫川亜弓であると思っている。姫川亜弓は、自分を信じる「姫川亜弓のファン」としての一面を持っている。本人は自分のことを好きではないのかもしれないが、でも己の才能を誰よりも信じることは、ファンとともに生きていくタレントの世界にとって、きっと何よりも大切なことだ。自分は素晴らしいはずだと信じること、そう信じていくために自分に厳しくあり続けること。それは、ファンの誇りを守ることでもあるはずだから。

『ガラスの仮面』には彼女たちのファンの存在は、かなり遠くに描かれることがほとんどで、「ファンのために舞台に立つ」といった理屈はあまり見られない。だからファンがどんな気持ちで亜弓さんを応援しているのかはわからないが、それでも亜弓さんは亜弓さんこそが「女優・姫川亜弓」を信じる人間だから、彼女が自分に応えようとすることこそが、彼女を信じるファンに応えることにつながっている。たとえファンについてほとんど描かれなくても、亜弓さんに救われているファンは多くいるのだろうなと想像できる。彼女としては、自分の人生を勝ち取ろうとしているだけなのかもしれない。でも彼女のそのスタイルは、いつだって「姫川亜弓」であることの責任を全うしている。ファンへの責任を全うしている。ファンの心を満たしている。マヤと亜弓の物語だから、あくまでも舞台裏の話として描かれるけれど、姫川亜弓はどこまでも芸能人で、彼女の生き方は、彼女のファンにまっすぐ応え続けるものになっている。姫川亜弓ほど、生まれつき「スター」の天才もそういないのではと思うのです。

 他者を天才だと思って見つめることは、その人の人生を丸ごとエンターテイメントにしてるみたいで、たまにとても気が引ける。ただ、こんな気持ち、きっと亜弓さんみたいな人には少しもわからないだろう。「なんで? 好きなだけ天才って思いなさいよ!」と言ってくれるのかもしれない。天才と思われることの生々しさはマヤにも姫川亜弓にも起きていることだけど、そのまなざしを栄養にして生きているのは姫川亜弓の方で、本当の意味でマヤには、演技の才能しかなく、だからこそずっと苦しむことにもなっているのだろう。

 一人の遠くの、縁もない他人の人生に、輝かしい才能を見出し、その成功を願い、時に大きな期待をするなんてとても暴力的なことであるはずなのに、亜弓さんは「私もそう信じてる!」と頷いてくれる。「信じる」ことこそが泥臭い日々を呼び込むのに、彼女はそこに躊躇がない。ひたすら快活なスター性に満ちている人だ。

<第2回に続く>

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