『ガラスの仮面』姫川亜弓が、生まれつきの「スター」であると思える理由/きみを愛ちゃん②

文芸・カルチャー

公開日:2025/9/3

きみを愛ちゃん』(最果タヒ/集英社)第2回【全6回】

 アニメやドラマに登場するキャラクターを高い熱量で愛し、生身の人以上に心を動かされことはないだろうか。本書は、中原中也賞や萩原朔太郎賞など数々の賞を受賞した詩人・最果タヒ氏が、さまざまなジャンルの32のキャラクターたちへ綴ったラブレターをまとめたもの。漫画から宝塚、アニメ、ドラマに童話まで、古今東西のキャラクターへの「愛」を磨き上げた、まるで宝石箱のようなエッセイ『きみを愛ちゃん』。その一部を抜粋してお届けします。

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『きみを愛ちゃん』
『きみを愛ちゃん』最果タヒ/集英社)

 ところで、スターって、本当に生まれつきスターなのだろうか? それは「天才」にも言えることだけど、人がそう呼ぶから「スター」としてその人は生きるようになるのではないか、とも思う。才能に恵まれ、カリスマ性を持つ「スター」。それは周囲の人間や、ファンが作るものなのかもしれない。あなたはスターだ、とファンが信じるときに見ている幻や夢を守るために、その人は本当に「スター」になっていく。そしてきっと、ファンも周囲も、その人が本当は生身の人間であることを忘れているわけではない。夢や幻に理想や都合のいい誤解が混ざっている自覚はほんのりある。でも、夢が見たくてそう言うのだ。夢を信じたくて、スターであることを望んで、その人を讃えるんだ。

 スターはスターがファンの夢を守るために強く志すときだけ存在できるもの。そして、姫川亜弓のスター性は、それこそ、生まれた時から始まっていた。家族の名前で、七光りで、ライトの下に立たされた。それは彼女にとっては不満なことかもしれないが、そのライトに「自分が相応しくない」と思うのではなくて、そのライトに相応しい人であろうとした。舞台に立つことが「スターになること」と同義であることへの戸惑いはそれこそマヤの視点で描かれているものだけど、スターの運命を最初から受け入れるしかなかった姫川亜弓にとって、悩む自由もない問題だった。彼女が素晴らしいのはそこで、自分が「スター」であることを身をもって証明しようとしたことだ。彼女は芝居の道に進むためだけに、逃れられないスターのライトを受け入れ、「生身の人間」として生きることをある意味では捨てて、貫いたのだ。そしてその先で、彼女は自分の才能を強く信じる女優になったのだろう。最初から自分が「夢」そのものだと思えたわけではないだろうが、他人が自分に見る夢が噓にならないように必死に生きた結果、自分が他者に見せる夢に現実だと確信さえ持てるようになった人。だから私は姫川亜弓が好きだ。

 舞台は「そこにいること」がとても大きな意味を持つ。一人の人が役を目の前で演じ、生きること。それを自分が自分の座っている席から、一人で、目撃し続ける。客席はたくさんあるとしても、その角度から見守っているのは自分一人だ。そして、広い舞台のどこを見つめるのかも毎秒自分が自由に決めることができる。「観劇」とはただ鑑賞するだけではなくて、同じ空間に生きること、その舞台の中を視線で泳いでいくことに等しい。だから、そこにいる舞台の人から受け取るものは「芝居」それだけではないと私は思うのです。私がそこで生きるからこそ見られた景色しか、ありえないのだ。自分がそこにいることを、こんなにも肯定的に感じられることはなかなかない。私が憧れていたあの人が今、目の前にいる、という喜び。その人が見せてくれるもの全てを受け取りたいと願うこと。ただ見つめるのではなくて、自分という人間としてその瞬間の舞台に「出会う」ことができる。その刹那のきらめきに、きっと憧れの感情は大きく影響している。ただ、生々しい舞台を見るのではなくて、その舞台が「刹那的」だと感じることこそが大切で、それは舞台に立つ人のスター性が作り上げるきらめきなんだ。姫川亜弓はそんな「スター性」を誰よりも手に入れている。それは決して舞台にとって邪道なことなんかではない。

 舞台に立つその人を信じること、その人が見せてくれる夢に期待すること、それをファンが「自分の人生の希望」にしてしまうこと。そして、そんな恐ろしい状態を「応援ありがとう!」と笑顔で受け止め、その夢の方角へ、力一杯歩くスター。そんな姿もまた、「舞台」そのものが求める大切な才能であるはず。姫川亜弓という人は、まさにそうした意味での天才だ。

<第3回に続く>

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