『らんま1/2』乱馬に恋するシャンプーが、彼女に片思いのムースに向ける優しさを考える/きみを愛ちゃん③
公開日:2025/9/4
アニメやドラマに登場するキャラクターを高い熱量で愛し、生身の人以上に心を動かされことはないだろうか。本書は、中原中也賞や萩原朔太郎賞など数々の賞を受賞した詩人・最果タヒ氏が、さまざまなジャンルの32のキャラクターたちへ綴ったラブレターをまとめたもの。漫画から宝塚、アニメ、ドラマに童話まで、古今東西のキャラクターへの「愛」を磨き上げた、まるで宝石箱のようなエッセイ『きみを愛ちゃん』。その一部を抜粋してお届けします。

自分を好きな人に、優しくしたい──『らんま1/2』シャンプー
自分のことを好きな人に対する愛着、にはどういう言葉を当てはめるべきなのか本当に難しいところがある。シャンプーは『らんま1/2』のキャラクターで、乱馬に恋をし、強烈に執着しているが、自分に恋をしている幼馴染のムースに対してはとても冷淡で、けれど決して見捨てることはない。ムースが乱馬に勝負を挑もうとする時、彼が卑怯な手段を使おうとすればシャンプーは誰よりも不快そうにするし、最悪な手段を取らなかったムースに褒美として「デートしてやてもよいぞ。」と言うこともある。ただ、それでもシャンプーが愛しているのは乱馬で、そこがゆらぐことはなかった。ムースがこの優しさに付け入ることがなく、期待を持つことがないのがこの二人の関係性が淡いままで続いている理由なのかなと思う。シャンプーのムースに対する態度は「自分のことを好きな人」への愛着で、それは「恋」とは完全に異なる。シャンプーより、もしかしたらムースの方がそのことをよくわかっているのかもしれない。
自分が好きでもなんでもない人に好かれることは、不気味だし、好きなんだからそっちも好きになってくれと思われることはもはや最低なこととさえ思う、というのは、この文脈の時、必ず書かなければならないと感じます。本当のところ、自分がその人を好きだとしても、相手には全く関係のないことなのであり、好いているんだから向こうも好意的に感じてほしいなんて筋が通るようで何も通ってはいない。愛されることは尊いことのように思えるが、愛されることと愛し返すことが表裏一体だと思っている人の愛情は、ひたすらに怖いものだ。愛情は双方でやりとりするものに見えて、誰かが誰かに渡そうとする愛はいつも、差出人だけの世界のものであり、それを渡される人がその愛をどうすべきなのかなんて何も決まっていない。愛は素晴らしいという認識が強すぎるとその「決まってなさ」が許されなくて、愛された人はその愛情をどう思うべきか、最初から決められているように感じてしまう。自分を好きな人間が、その好意を理由に愚かになることはとても不快なことだと私は思う。好きなその人を理由にして堕ちていくことの何が愛だろう、とさえ思う。いや、そこに愛であるか否かを持ち出す必要はないのだけど、あなたの堕落に巻き込まないでください、とは思う。
シャンプーが、ムースの卑怯さに怒るのは、ムースが堕ちていくことの根拠に自分への好意があるからこそなのかなぁ。いや、きっと幼馴染としての友情もあるのだろう。ただ、友達よりもシャンプーはずっとムースの行動に執着していて、それは自分がムースをどう思っているかではなく、「ムースが自分のことを好きだから」なのだとは思うのです。「好き」という気持ちに応える義理はないが、でも「好き」を理由に本人が身を滅ぼすのは、不快だし、放置できない。むしろ、自分がその気持ちに応える気がないからこそ心配になるのではないか。シャンプーがもし自分の友達で、ムースが彼女の幼馴染でもなくもっとよく知らない人だったら、そんなふうに気にしたら誤解されるからやめときなよと私は思う。ムースが誰よりもこのシャンプーの態度に理性的であるため、二人はちょうど良い距離のまま、ずっと互いを優しく思いやっている。
正直、「好きだから」という理由で何かを要求されたり期待されたり突然幻滅されたり逆恨みされたりすることがなければ、自分を好いてくれる人のことを人として普通に「幸せになりなよ」とは思っていたいし、馬鹿げたことをしていたら「やめなよ」と言いたい。私は普通に他人には誰に対しても親切でいたいし、「他人のことなんてどうだっていい」というふうに開き直れないことが本当はあって、でもそれはできもしない理想を掲げる行為でしかないこともわかっている。人を切り捨てるのは体力がいるし、悲しみがあるし、自分自身のことも誰かにとっては「どうでもいい」んだと、思い知るきっかけになってしまう。だから、親切にしたいと願って、できるかぎりそうしようと動きそうになるんだ。それが一番楽で丸く収まると思い込んでいるから。でも、そうはならなくて、好かれている人に親切にしたら、それは誤解を生むとか言われ、時には思わせぶりとか言われ、私はそれがめんどくさくて、なんだか腹が立って、じゃあ、好きになんかなるなよ、と思う。好きにならないでほしい。親切にはしたい。仲良くはなりたくない。何も叶わないのだ、これらの全てが。シャンプーがムースに見せる態度が私は心底羨ましかったりする。
「好き」と思ってくれる人がその「好き」だけで全てを済ませることってないから、「好き」という気持ちに、凪のような優しさを向けることってできなくて。好意に応える気もないのに優しくするのは卑怯だとか、そういう発想が当たり前で、私はずっとゲンナリしてる。人間はもう人間を好きになるなよ、とさえたまに思うなぁ。親切を取り除かなくちゃいけないくらい誤解が生まれてしまうなら好意なんて人には早すぎるのではないか? 私は他人のほとんどが好きじゃないし嫌いでもないしどうでもいいけど、倒れてたら「どうしました?」って聞きたいし、血を流してたら救急車を呼ぶよ。普通に親切にしたいし、優しくしたいよ。それはその人のためでもないのかも。優しくするって案外、息をするようなことです。他人と生きていく上で、自分が当たり前に優しい人でいられると、ほっとします。それが一番ほっとする。ずっと優しい人でいたいよ。人に対峙する時にそれ以上気楽なことってないのではないか。
人は生きているので。そしていつか死んでしまうので。簡単に傷ついて、心があるから悲しみがあって、そうやってとても繊細で、なんにもわからないし、思いやるにも限界があるから、柔らかいクッションでとりあえずガラス細工を包むように私は優しくいたい。好いてくれてる人にも嫌ってくる人にも、本当はあんまり興味がなくて、優しくすることで何か彼らに作用することも期待していない。他人と、他人の距離のまま自分の周囲と心の中の穏やかさを維持したいだけだった。身勝手ではあるのかもしれない。一方的な好意と同じくらいに身勝手に、私は優しくしたいなぁと思っている。
昔は、人には優しくしましょうと教育の場で言われていたはずで、私はその通りだなぁとそのたびに思っていたし、大人になったらそれが覆るなんて思いもしなかった。私はもう誰にでも優しくしていい世界ではないと知っていて、それが心底悲しいんです。
<第4回に続く>