「心がない」と思われている『チェンソーマン』のデンジが主人公である理由/きみを愛ちゃん⑤

文芸・カルチャー

公開日:2025/9/6

きみを愛ちゃん』(最果タヒ/集英社)第5回【全6回】

 アニメやドラマに登場するキャラクターを高い熱量で愛し、生身の人以上に心を動かされことはないだろうか。本書は、中原中也賞や萩原朔太郎賞など数々の賞を受賞した詩人・最果タヒ氏が、さまざまなジャンルの32のキャラクターたちへ綴ったラブレターをまとめたもの。漫画から宝塚、アニメ、ドラマに童話まで、古今東西のキャラクターへの「愛」を磨き上げた、まるで宝石箱のようなエッセイ『きみを愛ちゃん』。その一部を抜粋してお届けします。

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『きみを愛ちゃん』
『きみを愛ちゃん』最果タヒ/集英社)

社会のための「心」を持たない──『チェンソーマン』デンジ

 心がない、と簡単に人は言うが、誰に対してもそれなりには優しくて、ある程度「やってはいけないこと」がわかっていて、想像力があって他者の尊厳を踏み躙ることなく、人を思いやれて愛の意味がわかるとかそういうレベルのことをクリアしないと「心がない」と言われる世界って恐ろしくないか? とよく思う。それは平穏に過ごしたい人々が「これくらいは最低限みんなできますよね」と押し付け合っている「良識」であり、それが守れなければ「心がない」とするのは、ただ自分たちの平穏を強制的に保つための脅しなんじゃないか。チェンソーマンのデンジほどではないにしても、うっかり「ないわー」と言われるようなことをやってしまって人に冷たい目で見られたことが、私にはある。あるから、「心がない」という言葉が嫌いだ。みんなは本当に心がそんなにも成熟したものだと思っているのだろうか。なぜそんな踏み込んだ非難をするのだろう。デリカシー、とかもそうだ、わからない人が人としておかしい、みたいな話し方は過剰で、恐ろしくなる。なぜ加点方式ではなく減点方式なんだろう。なぜ心がそもそもないとかいう話に急になるんだろう。あるだろ。生きてるんだから。

 集団で生きていくために保つべき緊張。常識。デリカシー。そんなものがなくても本当は心はある、でも、そのことを認めると自分たちの生活の最低限の安全も守られなくなるかもしれない。だから自分が求めている平穏を守れない人間に、「お前は最低限の基準を満たしてない」と言う。そうやって不快な人間を「人間以下」として追い詰めていく。改善を脅迫で求めていく。集団で生きる人間の本能なのかもしれないな。多くの人は自分が求める常識がない人間の尊厳など守ることはできないんだ。

 デンジは、そういう人たちが他者に強要する「心」を持たない人間。持たないが、でもデンジにも心はあって、それなのに、時には他者が求める「心」が自分に足りないと焦って、挽回しようとすることもある。

「トーリカ 精巧な人形を作るコツを教えましょう 人形にする人間に人間しか持たない感情を入れる事 敬愛 崇拝 哀憐 そして隠し味は罪悪感」

 敬愛も崇拝も哀憐も罪悪感もデンジにはある。第一部の終盤で、彼の心の奥には幼い頃から「罪悪感」があることが明らかになる。デンジには心がある。それは確かだ。そしてそのことを人は無視する。そうではないもっと「他者にとって都合のいい心」を持て、と図々しく伝えている。デンジの「人間らしい罪悪感」に気づき、それをほじくり出し思い出させた人物は、デンジの人としての幸福を奪うためにそうしている。デンジには心があると捉えている人は、その心を握りつぶす。そして、心がないと捉える人は、デンジを非難し、追い詰めようとする。

 デンジはそのたびに戸惑うが、けれど彼はそれでも自分の心を見失わずに戻ってくるのだ。それこそが彼が主人公である理由なのだと私は思う。

<第6回に続く>

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