人と関わらずに育った『チェンソーマン』のデンジ。社会的な良識にとらわれない彼の「心」とは/きみを愛ちゃん⑥
公開日:2025/9/7
アニメやドラマに登場するキャラクターを高い熱量で愛し、生身の人以上に心を動かされことはないだろうか。本書は、中原中也賞や萩原朔太郎賞など数々の賞を受賞した詩人・最果タヒ氏が、さまざまなジャンルの32のキャラクターたちへ綴ったラブレターをまとめたもの。漫画から宝塚、アニメ、ドラマに童話まで、古今東西のキャラクターへの「愛」を磨き上げた、まるで宝石箱のようなエッセイ『きみを愛ちゃん』。その一部を抜粋してお届けします。

人は物語で「当たり前」からはみ出していくキャラクターに魅力を感じがちだ。それこそ、人が勝手に決めつけた「人らしい心」への執着を軽快に蹴飛ばすキャラクターはかっこいい。目的のために残酷になれる人物、ありえないほど徹底して合理的な人物、他者への共感が著しく少ない人物。私たちが生活する上でいつも強要される「心」を打ち破る登場人物は、見ているだけでカタルシスをもたらす。凡庸で、全員で守る「最低限の良識」に縋るしかない民衆を簡単に飛び越えて自由に生きる人たち。実際にはそういう人にはなれないからこそ、彼らを見ると何かが解消される。世の中にある当たり前のもの、つい優先したくなる価値観への焦りや恐怖が紛れていくんだろう。けれどもしかしたら、そうしたキャラクターに「心がある」と感じることは私はなかったかもしれない。彼らは、良識として語られる「心」が意味のないものであるかのように振る舞うし、「心がある」ことがそんなに大切なことか? と問いかけてもくれるが、その分、「心がなくてもいい」と思えるだけで、彼らに心を見出すことは少なかった。デンジはそこがきっと異なっている。彼はむしろ誰より「心がある」ことにこだわって、「心がない」と言われると戸惑うし、そこで立ち止まってしまう。「夢バトルしようぜ!」のセリフもそうだけれど、本当に周囲の人間が崇高な目的を持つことをどうでもいいと思っていたら、これは出てこない言葉のはずだ。相手のどの目標も「夢」であることを彼は否定しない。周囲の人と自分を比べ「なぜ」とデンジは思える人。それでいて、思考停止し、周りにひたすら合わせてその差を埋めようとはしない人。だから彼は「心がない」とはどういうことなのか、「心」ってなんなのかを、誰よりも自分で知ろうとしている。他人に「心がない」と軽く言えてしまう人よりずっと、その言葉について彼は考えているはずだ。
「あなたには心がない」と言う人は自分が何を言っているかちゃんとは知らないのではないか。「良識」というものを一つずつ自分で確かめて、これは確かに守るべきだと個人で判断していくのはとても苦痛を伴うと思うから、それは自然なことかもしれない。ただ正しいことを選ぶのではなく、何を守り何を捨てるか決めていくことだから。直視するのは、恐ろしいのだ。デンジは一度考えることを放棄し、マキマさんに全てを委ねようとするが、「心」が全てのものへの優しさや思いやりであるとするなら、それを徹底して守れる人物に何もかもを委ねようとするのは間違っていないのかもしれない。でも、人が考える「良い心」とはそういうものではない。人が他者に求める「良識」とはそういうものではないんだ。夢のような全知全能でも、絶対的な善でもなくて、もっと取捨選択の極北のようなもの。100人が死ぬよりは5人が死んだほうがマシ、というような、そんな選択の繰り返しだ。何を犠牲にし、何を選び取るか。どのようにこの世の均衡を保つか。なぜなら、人は「誰もが誰のことも傷つけず、全ての人を救い助け愛すること」を望むのではなく、「集団の社会を乱さないこと」を望むことしかできないから。誰も死なないでほしいと本気で願い、それを実行しようとしても目の前の世界が「少しマシになる」ことさえほとんどないから。可能な範囲で行動し、そして「効率の良い選択」を求めるしかない。
「どうすれば社会を乱さないか」の解釈は人によって全く異なる。たとえばディストピアのような社会で従来の恐ろしいものが全て消えるとしたら、そのために今の人間はほとんど死んでもいい、と考える人もいるだろう。集団の中で生きて、どうやってもわかり合えない他者と肩を並べる社会で求める「平穏」は、ひたすら現実的で最低限のものでなければならない。そして他者にその判断を任せてしまってもそれが「自分の考える平穏」と一致することはまずないんだ。「良識」は愛ではない。優しさでも、まともさでもない。その事実から目を逸らしたいから、人は、他人に「心がない」と言いはしても、そこで言及された「心」ってどういうものなのか、きちんとは考えられずにいる。
デンジは普通になりたくて、彼らが言う「心」とは何かを考えてしまう。でも、考えてしまうからこそ、彼は周りの人とは決して同じにはなれない。
デンジは、偏った価値観を拒み、良識を蹴飛ばすような「魅力的なキャラクター」よりもずっと、極端な人物だ。彼は周囲が信じている「心」を、決して否定しないから。それを知ろうとし続けるから。そしてだからヒーローなのだろう。彼は他人が握りしめている「当たり前」を否定しなくて、よく知らなくてわからなくて、それでも、「そこにいるもの」として他者を受け入れている。彼みたいに「当たり前のこと」や「他者」や「社会」に優しくて、肯定的でいる「極端な人物」を私はあまり他で知らない。極端ではあるし、世の中で浮いてしまっているけど、彼は他人のことが嫌いじゃない。ただ、誰よりも素朴に生きている。自分たちに都合のいい良識がなければ「心がない」なんて思う人々の方がずっとおかしいし、そもそも人は集団で生きるならおかしくならないとだめなのだろう。本能で、人は人として生きる限り、そうやって踏み外していくしかないんだ。
デンジが、こうした歪んだ価値観に侵されていないのは、人として生きてこられなかったからじゃないか、と思う。貧しくて、尊厳を踏み躙られ続けた子供時代。彼は、集団の平穏を知らない。だから、平穏のために結ばれる他者との緊張感ある関わりを知らない。彼は「心」を本当に、自分の心だと思って生きているんだ。他者に「心がない」と言う人は、建前として「心」という言葉を使う。気遣いとか配慮とか言えばいいのにそういう言葉より強いから「心」って使っている。デンジはそれをずっと知らずにいる。
デンジの他者への肯定的なあり方と、集団の圧がまぶされた「良識」への素朴な態度は、いつも「欲望」によって貫かれる。彼は自分のことばかり考える。集団のために生きることがよくわからないし、でも集団を無視し、時には加害することが己のエゴを貫くことだとも思っていない。彼はみんなが生きたいように生きていると信じていて、それが社会だと思っていて、集団だと思っている。社会を知らないから。集団を知らないから。我慢が人と人の間にある齟齬をごまかし、衝突を抑えているのだと知らないから。デンジは孤独だったから。
彼は作中で家族を得ることで、我慢ではなくて許し合う関係性での集団を見つけ出した。デンジは幸福だったと思う、それはマキマさんが言う「普通の幸せ」を得たからではなくて、デンジが生きられる集団は「家族」しかないからだ。社会に組み込まれていく前に、彼が「家族」を知ったことはどんな結末であったとしても覆されることのない彼の最大の幸福だ。
