複数版元から発売済みのドストエフスキーの名作『カラマーゾフの兄弟』 なぜいま中公文庫版がスマッシュヒット? 担当編集者を直撃!【インタビュー】

文芸・カルチャー

公開日:2025/9/4

競合ひしめく『カラマーゾフの兄弟』を文庫化した理由は訳者にあり

――今年6月から中公文庫の「名作名訳ライブラリ」という位置づけで発売された、中公文庫版『カラマーゾフの兄弟』(江川卓:訳)ですが、本作はすでに岩波文庫、新潮文庫、光文社古典新訳文庫と各社から刊行されており、古典文学として現在でも根強い人気の作品ではあります。この激戦区の同作を4社目としてあえて刊行されたのはなぜですか。

名嘉真 フォークナーの『野生の棕櫚(しゅろ)』を文庫化したときに、X経由で江川卓さん訳の『カラマーゾフの兄弟』を文庫化してほしいというリクエストを読者の方からいただいたんです。江川さん訳の『カラマーゾフの兄弟』は「集英社版世界文学全集」に収録されていた作品でとても評判が高いのですが、すでに絶版になっていました。古書でも2万円くらいの値がつけられて読もうとしても難しかったんです。けど「カラマーゾフ」ファンの熱気っていうのはすごいんですよ。『復刊ドットコム』という復刊のリクエストを投票するサイトを見るとたくさんの江川訳カラマーゾフの復刊希望のコメントがあって、それを読んでいたらこれはもう復刊しないといけないんじゃないかと思えてきて(笑)。

――社内での反応はいかがでしたか。

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名嘉真 たしかに社内の会議でも「どうなのか?」という意見はやっぱりありました。

 実は『カラマーゾフの兄弟』の発売前月にヘミングウェイの『老人と海』を「名作名訳ライブラリ」として出していますが、この福田恆存訳版はもともとは新潮文庫の定番で約500万部も売れたもので新訳版を機に絶版となったものでした。そこで「名作名訳ライブラリ」第一弾として『老人と海』、そして第二弾として『カラマーゾフの兄弟』と続けて発売すれば、中公文庫もこうした名作文庫を出していくつもりがあるのねと認知されるのではないかと企画が通り、こうして江川訳版の『カラマーゾフの兄弟』の文庫化が決まったという感じです。

――ファンから待望された江川さん訳の『カラマーゾフの兄弟』はどのあたりが魅力なのでしょうか。

名嘉真 江川さん独特の癖にあると思います。実際に新潮文庫版の原卓也さん訳と比べると、読みやすさの点ではお二人とも一流の翻訳家ですのでどちらも同じなんですが、江川さんはロシア語の文献などを取り寄せて注釈を書かれていて、日本文学界からは謎解き大魔王と呼ばれていたみたいなんです(笑)。その謎解き大魔王としての癖が訳に出てると思いますね。

 例えば第一巻冒頭の1行目、作者よりというところですが、

「わが主人公アレクサイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフの一代記をはじめるにあたって、私はある種のこだわりを覚えている」

 このように江川さんは訳されていますが、“ある種のこだわり”という部分が、他社の訳では「戸惑い」とか「ためらい」と訳されているんです。言わんとしているのは、作者とされる人物がこれから長いお話を始めるんですけど、こんな話を始めていいものだろうかという戸惑いやためらいを覚えているっていうのが他の訳なんです。

 そこを“私はこだわりを覚えている”と訳しているのは江川さんおひとりだけなんです。その根拠っていうのは特に注釈などで書かれてはいませんが、こういった江川さん独自の謎解き大魔王としての解釈が出てくるのがマニア心をくすぐられる部分なのかなと思います。

カラマーゾフの兄弟

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