「愛ってなんだろう」殺人犯の母が残した、理解を超えた愛の表現方法とは?【まさきとしか インタビュー】

ダ・ヴィンチ 今月号のコンテンツから

公開日:2025/10/16

※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2025年11月号からの転載です。

殺人犯の母が綴る孤独な“言い分” 理解を超えた、愛の表現方法とは

《つい、カッとなって》。殺人や傷害事件が報じられるときの《動機》は大概、それだ。

「“カッとなって”は動機ではないですよね。なぜカッとなったのか、相手のどこにカッとなったのかというWhy? が犯行動機なわけで。犯行を起こすまでの過程も、皆それぞれ違うのに、ニュースなどを観ていると、ひと括りにされているといつも思うんです。自分なりに想像をしてみるのですが、動機がまるでわからない事件がここ最近、どんどん増えてきているなと感じています」

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「人間が怖い。だってわからないから」と、まさきさんは言う。だがその思いこそが小説を生み出す原動力となっている。「わからない人間を書いていきたい、自分の理解を超える人間を」と。累計50万部突破の「あの日、君は何をした」シリーズ以来の長編警察ミステリーとなる本作では、作中に緻密な構造を組み立てていくことによって、わからない人間、そのわからなさに肉薄していったという。

「10年近く前、夫婦の視点が交互に現れてくるギリアン・フリンの『ゴーン・ガール』を読み、日記形式で書かれている妻の視点パートに“小説世界のなかにもうひとつの世界がある”と感じたんです。小説内に日記や手記を入れると、構成が重層的になるだけでなく、人物を多面的に描ける。そこでは極めて個人的な心情や秘密を吐露することができる。その構造を持つ小説を書きたいという思いをずっと抱えてきたのですが、自分の書きたいものと、その構造がなかなか合わなくて」

 だがひとつの気付きが、数年来の構想を昇華させることになった。

「母親が子どもを愛する、大切にするという概念は皆、それほど差異はない。なのに行動に移したとき、それぞれの愛の表現方法はまったく違ってくるなと。そのなかで“一般的には理解できない愛し方って、どういう愛し方なんだろう?”という問いが浮かんできたんです。そのとき、“この構造で書けるな”と」

 札幌、豊平川の川岸で見つかった女性の遺体。彼女は黒い粘着テープで両目を塞がれていた。事件を追う北海道警察・澄川警察署の刑事、天道環奈とその上司、緑川ミキの姿を映していくストーリー、そこに突如、現れてくるのは《ある母親の手記》。“五月九日、息子が人を殺したことを知りました”から始まる手記は繰り返し現れ、殺人を犯した最愛の息子への決死の応援演説になっていく。

「この事件のことがずっと頭にあったのでは? と書き終えてから気付いたのは、妻を殺した息子に相談を受けた母親が、自分の家の庭にその遺体を埋めた7年前の事件。強烈な事件でしたが、母親にしてみれば、息子の殺人を隠すために一緒に遺体を埋めることは息子への愛の表現方法だったんだろうなと思ったんです。倫理的には絶対に間違っている。でも倫理観の異なる場所でなら純粋な愛と呼ぶことができるのかもしれないなと。今作で書いた母親も明らかに倫理には反しているし、その愛の表現は狂気だと言える。でもそれほど現実からかけ離れたものでもないんじゃないかなって。所詮人間は、自分と自分の大切な人が幸福であればいいと思っている生き物だと思うので。そしてその思いが、本作を書いた基になっていた気がします」

傍若無人と寄り添い型 女性刑事バディが北の街に

「地元・札幌を舞台にした警察小説を書きたい」も執筆の“動機”。

「女性刑事のバディを書きたかったんです。カッコいい50代の女性を描きたかった。今、コンプライアンスに縛られる時代になってきたじゃないですか。その言葉が出てくる前の、昭和の風を感じさせる傍若無人な女性刑事を。それが緑川ミキ。そんな彼女と組むのは、緑川の個性が際立つよう常識的な30代の人がいいなと、他人の気持ちを考えすぎてしまう、天道環奈が生まれてきました」

 8年前に隣の市で起きた未解決の女性殺害事件もやはり遺体の目に黒い粘着テープが貼られていた。本件と同一犯か、模倣犯かという捜査中のやりとりのなか、被害者の気持ちになり、必死に考える環奈の意見を聞いて“寄り添い型かよ”とおかしそうに言う緑川。一見、噛み合っていない、でもそれがなぜかツボにハマる二人のやりとりが縦横無尽にストーリーを駆け巡っていく。刑事になったのは“人の不幸を見たいから”という緑川のミステリアスさも。

「もう二人のセリフだけでいい、と思うほど、緑川と環奈のやりとりを書くのは楽しかった(笑)。本作は次々と視点が変わっていきますが、そこでは、人それぞれに見ているものは違う、同じ出来事も見方によって違う出来事になることを書きたかった。ネットを見ても、自分の見ているもの、思っていることが真実だと信じて疑わないような口コミで溢れているじゃないですか。皆、自分の見たいことしか見ない。全然、違う景色を見ているんだろうなって」

 2つの事件の関係者に聴き取りを行うなか、緑川が目を留めたのは、引きこもりの中年の息子と年老いた母親が暮らす隣家のことを、“あやしい”“娘が狙われている”と警察に怒鳴り込んでくるクレーマーの母親。その思考回路も感情のもつれも、まったく理解できない環奈に、緑川はこう呟く。殺害された“彼女たちは思いも寄らないことで殺されたのかもしれない”と。その母親のように一方的に憎しみを募らせる人間がいるということは――と。その直後、思いもよらぬ事件が起き、《ある母親の手記》は、ある形をもって姿を現してくる。そこから独白、告白……と、誰にも聞いてもらえない“スピーチ”が作中に溢れ出し、その熱量を上げていく。

自問してみてほしいんです “愛ってなんだろうね”って

「“スピーチ”の部分を書いているときは辛かった。誰も自分のことを見てくれない、孤独のなかにいる人の発言だったから。その人の気持ちになって書いているとき、気付いたのは、言葉にすると、それが少しずつ自分から乖離していくということ。軽くなったり、大袈裟になったり、さらにその人だけの思いなのに、こういう話、どこかで聞いたことあるよね、と話を聞く人に感じさせるものになっていってしまう。どれだけ頑張って話しても、人の言い分って相手には伝わらないんだなと」

“世の中には我々の想像が及びもつかない人間がいるんだよ”という緑川の言葉どおり、現れてくるのは、まさき作品の真骨頂とも言える、眼窩の奥にぽっかりと闇が広がるような人物。読む者がその人物のスピーチを聞くためには、ここまで数多の“驚き”を経ていく必要があるけれど。

「漠然とした不安感、閉塞感に支配される今の日本社会から感じているものが、私のなかでその人をつくっていった。誰にも見てもらえない、話も聞いてもらえない、自分が何をしたいかもわからない、緩やかに死んでいくように生きている人を。そんな人がある日、些細なことで怒る。その怒りは、他人にはけっして理解できない、その人にしかわからない怒りなんだろうなと思いながら、その人の言い分を書いていました」

 懸命に“供述”という名のスピーチをするその人物から滲んでくるのも、その人だけの愛の表現方法だ。どんなに歪んでいても、愚かしくても、きっとそれは愛だ。

「私たちって、自分が思う表現方法でしか愛を伝えることができないんですよね。愛することにも、寄り添うことにも、技術やコントロール力は必要なはずなのに、結局ひとりよがりなことをしてしまう。だから一度、俯瞰して自分の思う愛を見つめてほしいんです。“愛ってなんだろうね”って、自身に問いかけながら」

取材・文:河村道子 写真:山口宏之

まさき・としか●1965年、北海道生まれ。2007年「散る咲く巡る」で北海道新聞文学賞を受賞。13年、母親の子供に対する歪んだ愛情を描いた『完璧な母親』が刊行され、話題に。「あの日、君は何をした」シリーズが累計50万部突破。『いちばん悲しい』『祝福の子供』、この9月に文庫化された『レッドクローバー』など著書多数。

スピーチ
(まさきとしか/幻冬舎)2090円(税込)

札幌、豊平川の川岸で見つかった黒い粘着テープで両目を塞がれた女性の遺体。彼女に何があったのか、夫もパート仲間も本当のことは何も知らない。〈寄り添い型〉の刑事、天道環奈とその上司、〈人の不幸が見たい〉緑川ミキが事件を追っているとき、殺人犯の母は手記を綴る。それは最愛の息子への決死の応援演説――。“これぞ、まさきとしか”と唸らされる長編警察ミステリー開幕!

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