畑野智美「モラハラと言いきれない微妙なラインの出来事を描きたかった」寝具店での経験を生かした「睡眠✕再生物語」【インタビュー】
公開日:2025/10/18

――そうしたお客さんたちを通じて、依里は自分に「合う」ものが何か、向き合っていくわけですが、彼女がなかなか前に進めない原因は、婚約者の直樹がすでに亡くなってしまっていること。
畑野 それこそ、直樹は世間的には申し分のない婚約者だったんですよね。大学時代からつきあっていて、依里にべた惚れだし、就職先も大手で、稼ぎにも心配はない。優しくて、見た目もいい。いい人をつかまえたね、勝ち組じゃん、とまわりは言うし、直樹が生きていればきっと、依里も自分の幸せを信じ続けていられたでしょう。私も、その未来を否定するつもりはありません。ただ、彼女が心から願って選んだ人生なのだろうか、と考えると「本当に?」と思ってしまう。
――実際、直樹の機嫌や態度によって、依里は留学をあきらめ、飲み会に行くことを制限されていたことが、物語が進むにつれてわかってきます。その、モラハラとも呼べないうっすらとした支配の描写が、リアルでした。
畑野 直樹にきっと悪気はなかっただろうし、依里も、自分がコントロールされていた自覚はなかった。恋人同士のコミュニケーションとして、気遣いとして、あたりまえのことだと自分から行動を選択した……そんな風に思い込んでいたことはたくさんあっただろうな、と。怒鳴ったり暴力をふるったり、具体的に行動に口出ししてきたわけじゃないからモラハラとは言いきれない。恋人同士や夫婦のあいだでしばしば起きる、微妙なラインの出来事を描きたい、と思いました。
――そういう意味では、田島さんとその夫も、依里と直樹の関係に似ていましたね。
畑野 田島さんは、夫が突然亡くなったことで、はじめて自分の人生を手に入れることができた。夫に従うのがあたりまえと思って、自分を主張することをしないまま過ごしてきた50年も、決して不幸せではなかっただろうけれど、夫がいなくなったことには解放感を覚えている。なんだかすっきりした気持ちになっちゃった、という彼女のような話を聞くこともときどきあったのですが、それを幸せと呼べるのか、私にはわからない。でもきっと依里も、直樹が生きてそのまま結婚していたら、同じように何十年後かに、自分の幸せをふと疑問に思う瞬間がきていたのかもしれないなあと思うんです。
――直樹が亡くなったのは、出張といつわり、見知らぬ年上の女性と温泉宿に泊まった帰りのバスの事故。生きていたら、そういうことも、依里は飲み込んでいた可能性が高いですよね。先ほどお話にあったように、基本的には素敵な婚約者なのだから。
畑野 優しいし、稼ぎもいいし、家族の時間も大事にしてくれる。基本的にはとてもいい夫なのだから、多少のことは目をつぶったほうがいい。そんなふうに、現実を正当化して、違和感に目をつむりながら生きている人はとても多い。それもまた、寝具に対する向き合い方と重なりました。「長く使って、それなりに気に入っているし、熟睡できるわけじゃないけど、命に係わるわけじゃないから、これでじゅうぶん」というように。
――〈持ちつづけることで、あの日々を意味のあるものにしたかった。無駄だったと認めるには、長すぎました〉と依里に言ったのは、直樹と一緒に亡くなった女性の夫である高橋。このセリフは、かなり刺さりました。
畑野 搾取されるのは女性だけとは限らない。男性である高橋もまた、妻の勢いにのまれて、いつのまにか結婚を選ばされていた人なんですよね。ふりまわされるばかりの日々に、どうしてこうなったんだろう、と戸惑いながらも「人生ってこういうものなんだろうな」と自分を納得させながら生きている。ときどき外で愚痴を言って、みんなと「そういうもんだよね」と慰めあいながら、現状維持につとめる。そういう人を、男性側からもちゃんと描こうと思いました。
――そして、そういう高橋だから、依里が抑圧されていたことにも気づくことができた。二人の距離が少しずつ縮まっていく過程に、ハラハラしながらも、安らぐものを感じました。
畑野 とはいえ、高橋も容易にふりまわす側に立てる人だと思っていますけどね(笑)。自分より主張の弱い、依里のような女性を前にしたら、きっと彼もうっすらとしたモラハラをするんじゃないかなあ、と。だから、二人の関係を描くことには、とても慎重でした。依里が、誰からもコントロールされることのない人生をつかむためには、まず一人で立つことを覚えないといけないな、と思いましたし。
――それは、彼女の仕事の向き合い方の変化にも、描かれていましたね。
畑野 ここ数年、私は血縁的にも法律的にもつながりのない他人同士がともに暮らす小説を描いてきました。でも、現実にはなかなか、それが可能なコミュニティを見つけることは難しいし、一人で生きていかなければならないことがほとんど。だから、依里と同じデパートで働く璃子ちゃんのように、稼げる結婚相手を見つけなければ、選ばれるために自分の趣味嗜好は捨てて、望まれる女らしさを身につけなくては、と思ってしまいがちなんですけれど、そうではなく、まずは生きるための稼ぎを自分で得られるようにならなくてはいけないな、と思うんです。
――選ばれるのではなく、自分が選ぶ側に立つのだと、依里が璃子に言う場面もありました。
畑野 この人と別れたって自分は一人で生きていける、そう思える相手でなければ、納得できる人生を歩むことはできないんじゃないかと思うんです。だから、高橋という自分に合う相手を見つけてめでたしめでたし、には絶対にしたくなかった。彼女がどんな選択をするかは、小説を読んで確かめていただければと思います。
――本書を読み終わると、「自分の人生を自分で選ぶ」ということの意味が深く沁みます。
畑野 自信をもって、自分で選んだと思えるものに出会えたとき、はじめて、自分は選ばれたと確信することもできるんじゃないかと思うんですよ。私の両親は小説を読む人たちではなかったので、小説を読むようになったのも、書くようになったのも、全部自分で選んだことだと胸を張って言えますが、同時に、小説が私を選んでくれたとも思っているんです。『宇宙の片すみで眠る方法』というこの小説も、経験をもとに何度も何度もプロットを書いて、編集者さんと時間をかけて話し合いながら、自分の意思で書いたものだけど、同時に、この物語が私を選んで生まれてきてくれた、とも思っています。
――そんな、幸せな両思いにめぐりあえたとき、人はぐっすりと眠れるのかもしれないな、と本書を読んでいて思いました。宇宙の片すみで、ひとりぼっちで生きているのだとしても、胸を張って自分の人生を選ぶことができたらいいな、と。
畑野 恋人に限らず、親の影響でなんとなく「これがいいものだ」と思わされたものを選び続けてしまうことは、誰にだってあると思うので、ぜひ多くの人に手にとっていただきたいですね。そして、こんなにも寝具に詳しくなれる小説は他にないと思うので、物理的によい眠りを手に入れたい方は、ぜひ読んでみてください。
取材・文=立花もも 撮影=島本絵梨佳
※高橋の“高”は、書籍でははしご「高」が正式表記