40代独身男性、瞑想にハマる。太宰治賞作家・西村亨が描く、生きづらさをこじらせた男の物語になぜか“共感”が止まらない?【書評】

文芸・カルチャー

公開日:2025/11/12

死んだら無になる
死んだら無になる(西村亨/筑摩書房)

 第39回太宰治賞を受賞し、2025年9月に待望の文庫化となった『自分以外全員他人』と、その前日譚というべき『孤独への道は愛で敷き詰められている』に続く、西村亨氏の新作『死んだら無になる』(筑摩書房)が発売された。

 本作は前二作に続き、世間を疎ましく思いながらも世間を意識してしまい、自己評価の低さからマインドが堕ちていくというループを繰り返しながら生きている、40代独身・柳田譲の物語だ。妬みや嫉妬、エゴといった日常生活で出会う小さな不満の種が柳田の心に蒔かれていくたびに、「これは自分の物語なのでは」と共感を抱かせる、ある意味でとても危険な小説である。この柳田の生き方に心を鷲掴みにされた読者があとをたたず、なんと『自分以外全員他人』Tシャツ(https://p-t-a.shop/products/pta-tanin-ts-001)が作られるまでの人気シリーズでもある。

 生きれば生きるほど人生に向いていないと感じる柳田の行動は、なんとか生きながら一般社会と“無”の境界上に片足で立っているような危うさを感じるが、反面、他人との関わりに一生懸命に悩み熟考する姿を見るたびについ笑みがこぼれてしまう。

 街中のシャッターが下りた店の軒下でカレーパンを食べていると“70代くらいのひとりの婦人”が笑顔でこちらを見ていることに好意的なものを感じた柳田は笑顔で返すが、婦人から外で食べることへのマナーについて小言を言われてしまう(一瞬で「婦人」から「ババア」へと呼び方が変わるのは爆笑ものだ)。見ず知らずの他人とのふれあいはこの程度が妥当だと、自身の対応をわざわざ熟考している柳田に可笑しくも共感せずにはいられない。

 そんな柳田だが、かつてはポジティブな人間になりたいと思い仏教にハマった。仏教が“苦しみから離れるために欲望や執着を手放し平穏な心を目指す”と推奨していることから、柳田はその奨めに従い承認欲求や自己顕示欲を手放すことを心掛けた。すると、柳田が勤務するマッサージ店の仕事で客から喜ばれたり褒められたりしても何も嬉しくなくなり、仕事が苦痛でしかなくなってしまう。他者からの教えで自身のマインドを変えてしまえる、素直すぎる柳田がとても愛おしくさえ思えてくる。

 しかし柳田には危うさも漂う。40代、高卒、フリーター、独身である彼は、苦手な人生の着地点として“自死”への憧れも持ち続けている。また、人の優しさに触れることが少なくなり、他人からぞんざいに扱われるようになったことから人を殺すことへの罪悪感が薄れている気もしている。そこをなんとか踏みとどまる柳田は、そうなる前にどうにかして社会からドロップアウトしなければならないと考えているのだ。

 柳田が目指す社会からのドロップアウト。それは現代において生きながらの“無”であるといえよう。こうして柳田は心の内面の“無”を目指すため、瞑想にハマる。

 果たして柳田が瞑想の果てに得るものは救いか、それとも望んだ“無”なのか。

 生きることへの柳田の懊悩は実は誰しも抱えているものだ。誰もが、意識するにしろ無意識にしろ、他者と関わるうえで自分のエゴと他人のエゴの妥協点を探り続けている。柳田はそんな自分と他人とのエゴの妥協点が少々他人寄りに偏っていて、場合によっては社会のマナーや“公正さ”も考慮しちゃったりして、そりゃもう些細なことでも悩んじゃうのだ。だからこそ生きていくのが苦手なのは自分のせいだと感じた柳田は哲学や仏教といった力を借りて自己の内面の改革へと関心が向いていくのである。

 それにしても本書のラストはあまりに恐ろしすぎる。

 柳田に救いは訪れるのか? いや、救われてほしいと願わずにはいられない。

 西村賢太氏、町田康氏といった破滅型私小説を好む人や、無頼派が好きという人には、特に刺さるシリーズになっているのではないだろうか。一度は世間に爪を立ててやりたいと懊悩としている人に、そっと本書を差し出したい。そんな作品であった。

文=すずきたけし

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