工事現場の「安全vs予算」のバトルに隠された秘密とは? 注目作家・石田夏穂による、仕事の正義を揺るがす建設系小説【書評】
PR 公開日:2025/11/21

慣れ親しんだ会社や同じコミュニティに長く在籍することは心地よい。人間関係や信頼を深めることができるが、その一方で、他者や違う価値観を理解できない愚かしさに陥るという落とし穴もあるのではないだろうか。芥川賞候補にもなった『我が友、スミス』をはじめ、いつも読者に新しい世界を見せてきた小説家・石田夏穂氏は、最新作『緑十字のエース』(双葉社)でも、私たちを固く閉ざされた価値観の扉の向こう側へと連れて行ってくれる。
物語の舞台は、郊外の大型ショッピングモールの工事現場。「緑十字」とは安全の象徴で、工事現場に旗や看板として掲げられるモチーフだ。主人公は、大手デベロッパーのエリート社員だったものの、ある出来事をきっかけに退職した50歳手前の男・浜地。キャリアに自信はあったものの就職活動がうまくいかず、焦りから中堅ゼネコンの契約社員となった浜地は、工事現場勤務を命じられる。家族に転職を言い出せず、高級スーツで家を出ては、公衆トイレで作業着に着替えて出勤する毎日を送っている。
浜地は、工事現場の安全衛生管理責任者を任される。彼の教育担当は、30手前のヤンチャ風の男・松本だ。融通が利かず、作業を止めてまで徹底的に工事現場の安全指導を行う松本は、同僚からも下請けの作業員たちからも煙たがられていた。杭打ち作業が進むある日、浜地は、杭の搬入トラックが道路につけた泥のタイヤ痕「泥引き」を洗い流す作業を命じられる。浜地は、工事現場の仕事を「誰にでもできる仕事」と言い、将来に迷う次男の進路にも揺れながら、早くこの仕事を辞めたいと思っていたが、泥引きの様相への違和感や、安全指導に関わるある疑念を抱きはじめ――。
工事現場という限られた空間、そして2年を超える工事の序盤工程ながら、現場では日々さまざまな事件が起こる。安全をめぐる論争は、浜地が、前職の大手デベロッパーで安全対策費の削減に携わった過去とも重なる。工事現場の人物たちの思惑が、浜地の鋭い洞察で明らかになっていく中、エリートの浜地が抱いていた、職業の貴賤、学歴社会、仕事の正義などのさまざまな価値観が揺らいでいく。無気力だった浜地の言葉や行動が熱を帯びていく中で、読者も、「働くとは何か?」という問いを突き付けられる。
著者のこれまでの作品同様、その業界のディテールの描写が秀逸で、知らなかった世界がわかるお仕事小説としても読み応えたっぷり。元請けと下請けの関係性や、予定通りに工事を進めたい本社と、天候を含む予想外の事態と戦う現場の対立も生々しい。特に惹きつけられるのは、工事現場で働く人々それぞれの正義がぶつかる安全指導の場面。流し込んだセメントの硬化が刻一刻と進み、轟音が鳴り響く中で、男たちが声を張り上げながら交わすやりとりはスリリングだ。
現場で働く人々に触れ、変わっていく浜地がとった行動とは。松本が、安全に異常にこだわる理由とは――。
読み終わる頃には、読者は不思議な清々しさに包まれているはず。建設業に関わる人はもちろん、仕事で躓いたことがあるすべての人の心に響く物語だ。
文=川辺美希
