ほんとうの名前/【吉澤嘉代子 エッセー連載】ルシファーの手紙#15

文芸・カルチャー

公開日:2025/12/29

 物心がついて、自分の名前が「かよこ」だと知ったころから、私はその名に納得していなかった。この世にはもっと私に相応しい名前があるはず。いつか、ほんとうの名前を見つけたいと思っていた。

 最初に憧れたのは母だった。2歳のある日、母にも名前があることを知り、その名の美しさに魅了された私は、スーパーで迷子になった時、従業員に「あなたのおなまえは?」と訊かれ、躊躇なく母の名を答えた。館内放送で2歳の迷子として呼ばれた母が血相を変えて「かよちゃん!」と迎えにきた姿を覚えている。私は母の名前が欲しかった。

 その後、忠実屋ヒロコだったり、マジカルウィンディだったりと、様々な名前を思いついては、家族に「今日から私の名前は◯◯ちゃんです」と報告した。自分の名前を探すことがいつの間にかライフワークになっていた。

 私の名前「嘉代子」は、家の事情により、私の知らない人に付けられた。私はその名前に込められた大人たちの祈りや意味を理解できなかった。名付け主には会ったこともなければ、今後会うこともない。ほんとうは、生涯使う名前を、私を産んでくれた母や父や、祖父母に付けて欲しかった。

「(前略)あの、もしできたら、つまりその、ぼくの名前を考えてくれるなんていうのは、ものすごくめんどうでしょうね。ぼくのだけで、ほかのだれのものでもないやつを。今夜、いや今、この場でさ」 (中略)「あんまりだれかを崇拝すると、本物の自由はえられないんだぜ。そういうものなのさ」
『ムーミン全集[新版]6 ムーミン谷の仲間たち』(トーベ・ヤンソン:著、山室静:訳)より
© Moomin Characters™

『ムーミン谷の仲間たち』の中で、スナフキンに憧れる者が彼に願い、突き返される会話だ。その切実さが、延々と名前を探し続ける自分に重なり胸が苦しくなった。そうだ、名前というのは最初のまじない。それを誰かに委ねるのは危険を孕むということ。

 去年、家族が撮った古いホームビデオを復元する機会があった。再生された8ミリフィルムには、今の私よりも歳下のうら若き両親が何度も私の名前を呼ぶ。幼い私は「いや」と駄々を捏ねていた。「かよちゃんのお名前は?」と問われたところでテープは途切れた。

「(前略)きみの名まえのことだけど、ティーティ・ウーっていうのはどうだろう。ティーティ・ウーっていうのはね、たのしそうにはじまって、とても切なくおわるんだ」
『ムーミン全集[新版]6 ムーミン谷の仲間たち』(トーベ・ヤンソン:著、山室静:訳)より
© Moomin Characters™

 デビュー前、歌うための芸名を無数に考えた。吉澤嘉代子は嫌だった。それでも本名で歌うことを選んだのはなぜだろう。当時の私は「これは名前を賭けた博打だから」と言い訳していたけれど、本当は勇気がなくて自分に名前を付けてあげられなかったのだ。私にはティーティーウーのようにスナフキンもいなかったから、たくさんの人に名前を呼んでもらい、叫んでもらい、少しずつ自分の名前を受け入れていけたのかもしれない。ホームビデオの問いかけにより、やっとほんとうの名前を見つけられた気がした。あまりにも聞き慣れた名前なのに発見したような不思議なあたたかさ。私の名前は嘉代子なのだと。

<第16回に続く>

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吉澤嘉代子

1990年6月4日生まれ。埼玉県川口市鋳物工場街育ち。2014年にメジャーデビュー。バカリズム原作ドラマ『架空OL日記』の主題歌として1stシングル「月曜日戦争」を書き下ろす。2ndシングル「残ってる」がロングヒット。2025年4月20日に2度目の日比谷野外音楽堂公演「夢で会えたってしょうがないでショー」を開催。デビュー11周年記念日となる5月14日に『第75回全国植樹祭』大会テーマソング「メモリー」をリリース。9月放送のNHK夜ドラ『いつか、無重力の宙で』では書き下ろし楽曲「うさぎのひかり」が主題歌に。10月から全国ツアー「歌う星ツアー」でライヴハウスをめぐる。